第2章
橘純司から電話があった時、私は指導教官の研究室で、海外留学を勧められているところだった。
「これはまたとない機会だ。君の技術をさらに一段上へと引き上げてくれるだろう」
私は俯き、パリ・バレエ団からの交流招待状を見つめる。その精緻な紙面を、指先でそっと撫でた。どれほどのダンサーが夢見る機会だろうか。なのに私は、星野澪のせいで躊躇していた。
電話が繋がると、橘純司の声は明らかに焦りと緊張を帯びていた。
「葵野さん、大変だ、星野の奴がイカれちまった!」
私の心臓は一瞬にして喉元までせり上がった。
「何があったの?」
「花咲の嬢ちゃんがどうやってかライバルのチームを怒らせちまって、星野がそいつを守るために、サーキットでの無謀なレースを引き受けやがったんだ!」
橘純司の声はほとんど震えていた。
「何を言っても聞きゃしねえ。今回のレースは完全に命懸けの冗談だ!」
私は勢いよく立ち上がり、急いでその場を後にした。
鈴鹿サーキットに駆けつけた時、レースはすでに始まっていた。
ピットエリアの端で、私は花咲絵梨を見つけた。彼女の顔は、涙で化粧がめちゃくちゃに崩れていた。
「心音さん!」
私を見るなり、彼女はすぐに飛びついてきた。
「どうしましょう? 澪君、危ない目に遭ったりしませんよね……」
私はためらうことなく彼女の手を振り払い、振り上げた手で容赦なく平手打ちを食らわせた。
花咲絵梨は頬を押さえ、信じられないといった様子で私を見つめる。
周りのスタッフは皆呆然とし、空気はまるで凝固したかのようだった。
「もし澪君に万が一のことがあったら」
私は彼女の目を射抜き、氷のように冷たい声で言った。
「あなたをこの世に生を受けたこと、必ず後悔させてあげる」
踵を返しサーキットの縁へ向かう。私の心臓は、レーシングカーのエンジン音と共に絶えず鼓動を速めていった。
星野澪の駆るマシンは、すでに高速走行中に問題を起こしていた——エンジンルームから白煙が噴き出し、リアウィングの端からは火花さえ散り始めている。だが彼は頑なにピットインを拒み、ヘアピンカーブではライバルのマシンとほとんど接触しかけながらも、一切減速しようとしない。
「あのバカ、何考えてやがるんだ?」
橘純司がヘッドセットを外して怒鳴った。
「あいつはレースしに来たのか、それとも死にに来たのか?」
私はガードレールを強く握りしめ、指の関節が白くなる。
最終ラップ、星野澪は賭けに成功し、わずかな差で一位の座を守りきりゴールラインを通過した。彼がヘルメットを脱ぐと、レーシングスーツは汗でぐっしょりと濡れていた。彼はチームメイトと自信に満ちた張りのある口調で笑いながら話していたが、その視線がピットエリアを横切った時、そこに立つ私を捉えた。
彼の笑顔が、瞬時に固まる。
「いつから……見てた?」
星野澪は私に近づき、少し掠れた声で尋ねた。
私は目を赤くして、彼に問うた。
「忘れたの?」
彼はどこか戸惑った様子だった。
「何を?」
彼は昔から無茶な男だった。高校時代からこっそりアンダーグラウンドのレースに参加し、大学ではアマチュアレースの世界へ。車を走らせればまるで命知らずで、実家はレースに猛反対し、資金援助も打ち切ったが、彼は自らの才能で名を上げた。
私も彼の身を案じ、何度もやめるよう説得しようとした。けれど、レースをしている時の彼は輝いていて、心からレースを愛しているのがわかったから、私はもう何も言えなくなった。ただ、彼に求めたのだ。どんなことがあっても、私のために、どうか自分の命を大切にして、と。
星野澪も真剣な顔で約束してくれた。
「ああ。俺の心音のためなら、必ず命を大事にする」
それ以来、彼のレーススタイルは大胆さを保ちつつも、より抑制の効いたものになっていた。
「私と約束したでしょう。私のために自分の命を大切にするって」
私は一言一言区切るように言った。
「もう忘れてしまったの?」
星野澪は俯いた。
「忘れてない」
彼は忘れていなかった。それなのに、花咲絵梨のために命を投げ出そうとした。
世界の意志とは、それほどまでに強大なのだろうか。約束を覚えていながら、別の誰かのために、こうも易々とそれを破らせてしまうなんて。
私は深く息を吸い込む。胸がナイフで切り裂かれるように痛んだ。
「私たち、もうこれで終わりにしましょう」
「は?」
星野澪ははっと顔を上げた。その目に一瞬、動揺がよぎる。彼は私の手首を掴んだ。その力は、痛いほどに強い。
「何を言ってるんだ? 心音、そんな冗談はやめろ」
「冗談じゃないわ」
そう言い放ち、私は彼に一切の弁解の機会も与えず、背を向けて歩き出した。
橘純司が黙って私の後ろについてきて、車のドアを開けてくれる。
車に乗り込むと、私はようやく声もなく涙を流した。車窓の外の風景が猛スピードで後ろへ流れていく。まるで、私と星野澪の関係のように。もう二度と、元には戻れない。
突然、一台のレーシングカーが驚異的なスピードで私たちを追い越し、そして急にハンドルを切って、橘純司の車を無理やり停止させた。
星野澪だった。チームメイトの車を借りて追いかけてきたのだ。
彼は車の前に立ち、フロントガラス越しに口を動かす。
「降りろ」
私は首を横に振った。
星野澪は数歩後ずさり、山道のガードレールの縁まで下がった。彼の片足が空を踏み、その体は崖っぷちで危うく揺れている。
「あのキチガイ!」
橘純司が罵った。
私は目を閉じ、全身を震わせながら言った。
「車を、停めてください」
