第3章

レーシングカーのエンジンが止まった。

星野澪が、私が乗る車の窓の外に立ち、そっとガラスをノックした。彼の瞳には見覚えのある狂気が宿っていたが、その奥深くには脆さと悲しみが隠されており、まるで迷子の子供のようだった。

一瞬ためらったが、結局私はドアを開けて車から降りた。

「心音、話がある」

彼の声は少し掠れていた。

「私からも、伝えたいことがあるの」

私は深く息を吸い込む。

「パリのバレエ団から招待状が届いたの。交換留学生として、海外に行く準備をしてる」

星野澪の表情が瞬時に凍りついた。彼は私の手首を掴む。その力は、痛みを感じるほど強かった。彼は目元を赤くし、ほとんど聞こえないほど低い声で呟いた。

「どうして急に行くなんて言うんだ?」

私は彼の目を直視しなかった。

彼が私たちの間のすべてを少しずつ忘れていくのを、この目で見たくないから遠くへ行くのだと、どう伝えればいいのだろう。世界が少しずつ彼の記憶を奪っていく。いつか彼は、私のことを完全に忘れ、他人として扱うようになるだろう。その時、かつては愛で満ちていたのに、もう私の影を探すことのないあの瞳に、私はどう向き合えばいいのだろうか。

「花咲絵梨はあなたにお似合いじゃない?」

私は涙を必死にこらえたが、声が感情を裏切ってしまった。

「大丈夫よ。あなたの幸せを追い求めて」

システムに少しずつ変えられていく彼を見ているくらいなら、自ら去った方がましだ。東京を離れ、日本を離れれば、この無力感がもたらす苦しみも少しは和らぐかもしれない。

「お前が考えてるようなことじゃない、心音」

星野澪が私の言葉を遮った。彼の指は微かに震えている。

「前に話したこと、覚えてるか?俺の心臓が、自分じゃコントロールできないって話」

「葵野心音」

星野澪の声が詰まり、涙が彼の頬を伝って滑り落ちた。

「俺は、お前のことを忘れ始めていることに気づいた。時々、二人で過ごした時間を突然思い出せなくなるんだ。まるで……まるで誰かに記憶を盗まれているみたいに」

彼は私の両肩を強く掴んだ。まるで私が、嵐の中の彼にとって唯一の錨であるかのように。

「でも、もう原因は突き止めた。誰にもお前を俺の記憶から奪わせたりしない。約束する」

私は彼の瞳を見つめた。そこにある固い決意に、心が微かに震える。

彼を信じるべきなのだろうか?彼は明日には、今日私と話したことを忘れてしまうのではないだろうか?

私はそっと応えた。

「信じてるわ、澪君」

彼は花咲絵梨との取引内容を詳しく明かさなかったが、花咲絵梨が自らを『恋愛小説のヒロイン』と称し、『システムの攻略任務』を帯びていることだけは教えてくれた。

「任務が終われば、世界線は終了し、すべてが既定の軌道に戻るって、あいつは言ってた」

星野澪の指が私の髪を撫でる。

「でも、そんなことはさせない」

彼がそう説明してくれても、私は星野澪の隣に花咲絵梨がいるという事実に耐えられなかった。それからの日々、私はリハーサルに全身全霊を注ぎ込み、ハードなトレーニングで自分の思考を麻痺させようと試みた。

ある晩、練習着から着替えて劇場を出ると、星野澪が自分の車のそばに寄りかかって私を待っていた。

「こっちだ」

彼はミステリアスに微笑み、私の手を引いて屋上へと駆け出した。

月光の下、星野澪は懐からそっと、白黒の小さな野良猫を取り出した。

「駐車場で拾ったんだ」

彼は囁くように言った。

「お前に似てる気がしてな。どっちも意地っ張りなチビちゃんだ」

私も思わず笑ってしまった。

星野澪は私の手を固く握り、決然とした眼差しを向ける。

「俺の心臓は、やっと俺自身のものになった」

花咲絵梨の任務が終わったのか、それとも彼がその任務に打ち勝ったのか……?私は驚いて彼を見つめた。

星野澪は私の肩に寄りかかり、小さな声で言った。

「少し疲れた。目を閉じて休みたい」

しかし、一分後、三分後、十分後、私がいくら呼びかけても、彼は応えなかった。

彼の呼吸は弱々しくなり、顔色は紙のように真っ白になっていた。

彼は病院に運ばれた。

医師は、多臓器が突如機能不全に陥ったが、原因は不明だと言った。

集中治療室の外で、私はガラス窓越しに星野澪の蒼白な顔を見つめていた。

「惜しかったわね」

花咲絵梨が突然廊下に現れた。その顔には複雑な表情が浮かんでいる。

「あと少しで、彼は完全にシステムに打ち勝てたのに」

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