第4章

花咲絵梨の言葉は、鋭利な刃物のように私の心臓を突き刺した。指先が強張り、全身の血液が瞬く間に凍り付くのを感じた。

「どういう、意味?」

自分の声が、乾いて掠れているのが聞こえた。

花咲絵梨はすぐには答えず、ゆっくりと私の隣まで歩み寄ると、私と同じようにガラス窓越しに集中治療室の星野澪を凝視した。彼はそこに横たわり、蒼白な顔には酸素マスクが装着され、腕には点滴の管とモニタリング装置が繋がれている。胸には心電図モニターの電極が貼られ、モニターに映る線は弱々しく拍動を刻んでいた。

「私たちがいるこの世界は」

花咲絵梨の声は、意外なほどに平坦だった。

「恋愛小説なの」

私は驚きを見せなかった。あの夢の中で、すでに似たような言葉を聞いていたからだ。

しかし、花咲絵梨の次の言葉は、重い槌の一撃のように私の理性を打ち砕いた。

「あなた、葵野心音は、ヒーローである星野澪の高嶺の花。本来なら一年前の飛行機事故で死んでいるはずだった」

「あなたが直前で予定をキャンセルしたせいで、世界線が不安定になったの」

花咲絵梨の瞳が、奇妙な光を宿してきらめいた。

「世界線の安定を保つため、星野澪は次第にあなたのことを忘れ、最終的には私――この恋愛小説のヒロインを愛するようになる」

私の瞳孔が微かに収縮し、星野澪が私に言った数々の言葉が脳裏をよぎった。

「あなたと澪君は、どんな取引をしたの?」

私は小声で尋ねた。

花咲絵梨は微かに笑う。

「私が彼に言った言葉、覚えてるでしょ? 任務を完了させれば、世界線は終わるって」

私ははっと気づいた。星野澪のこれまでの行動――パーティーで花咲絵梨の代わりに酒を飲み、サーキットで彼女のために危険を冒したこと――は全て、花咲絵梨が一日も早く任務を完了させるための手助けだったのだ。

「彼に伝えた任務って何?」

私の声は、ほとんど聞き取れないほどに細くなった。

「心の共振値の蓄積よ」

花咲絵梨の指が、集中治療室のガラスをそっと撫でる。

「システムはヒーローの生理反応に影響を与えて、彼の心拍数を上げるの。だから彼は、自分の心臓が制御できないって感じていたわけ」

私は目をわずかに細めた。

「でも、あなたは彼を騙した」

花咲絵梨は笑った。その笑みには、どこか得意げな色が混じっている。

「私が彼に教えたのはサブクエストだけ。それに、クエストの報酬でシステムが私に与える影響力をなくしてもらったの」

彼女は肩をすくめる。

「システムの権限一つと引き換えに、彼があなたのことを完全に忘れてくれるなら、私にとっては損じゃないでしょ」

「どうして彼はあんな状態に?」

私は集中治療室の星野澪を見つめ、喉が締め付けられるのを感じた。

「世界線の自己修復によって、彼があなたを忘れる。これはシステムで解決できる問題じゃない」

花咲絵梨の声には、いくらかの憐憫が滲んでいた。

「でも彼は、体の主導権を取り戻した後、全身の細胞があなたを忘れることに抵抗したの」

彼女は集中治療室の星野澪を指差した。

「今、彼が瀕死の状態なのは、その抵抗の結果。医者は統合失調症に似た症状だと言っているけど、それはただの表象に過ぎない」

私の心は、刃物で抉られるようだった。星野澪が、私を忘れたくない一心で苦しみもがいている姿を見て。

「私に、何をしてほしいの?」

私は掠れた声で問いかけた。

花咲絵梨の表情が真剣なものに変わる。

「東京を離れて。星野澪の人生から、完全に姿を消して」

彼女は一拍置いて言った。

「もしあなたが去るなら、システムに彼を目覚めさせてあげる。もちろん、代償として彼はあなたのことを完全に忘れるけど」

私は集中治療室の星野澪を見つめ、迷うことなく答えた。

「わかった」

花咲絵梨は、私のあまりの決断の早さに少し驚いたようだった。

「あなたのメインクエストは何?」

私は不意に尋ねた。

花咲絵梨はしばし沈黙し、やがて白状した。

「星野澪の、私に対する感情エネルギーを集めること」

私は瞬時に、この解けない難題を理解した。花咲絵梨が任務を完了すれば、星野澪は彼女を愛することになる。もし任務が失敗すれば、星野澪は記憶の喪失に抗い続け、永遠に目覚めない。

花咲絵梨の手配で、私は病院の無菌衣を身につけ、最後に一度だけ集中治療室に入った。星野澪に触れることはできず、ただ宙で彼の面影をなぞり、その姿を脳裏に焼き付けようと試みる。

「澪君、私、行くね」

私の声は、風のように軽かった。

心電図の線が、わずかに揺れた気がした。

「私のこと、忘れて」

突如、心電図の曲線が激しく乱れ、モニターが耳障りな警報を鳴らし始めた。星野澪は固く目を閉じているのに、その目尻から涙が滑り落ちるのが見えた。彼の指先が微かに震え、何かに必死で抗っているかのようだった。

私は自分の手のひらを強くつねり、自らの決断が星野澪にもたらした苦痛をこれ以上見るに堪えなかった。

この恋愛小説の世界で、私たちはどうすれば運命に抗うことができるのだろう?

わからない。だからせめて、どうか、ちゃんと生きて。鈴鹿のサーキットに戻って。そして、私のことを忘れて――私は心の中で彼にそう告げ、踵を返して集中治療室を後にした。

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