第1章 あの女、もう助からない
千葉椿は、頭が割れそうな痛みに耐えながら、ようやく目を開けた。
視界が定まるにつれ、自分がいる場所と――こちらへ近づいてくる男が三人いることを理解する。
……やられた。
従姉の千葉美永に、またしても嵌められたのだ。
「……あんたたち、何する気?」
千葉椿は声を荒らげ、頭を振って意識をはっきりさせようとする。
「おっ、起きたか。この小娘」
ベッドのそばまで来た、禿げ頭の脂ぎった男。目に宿るのは下卑た光で、千葉椿を舐め回すように見た。よだれが今にも床へ落ちそうだ。
「起きてたほうがいいんだよ。起きてるほうが、味がある。さすが千葉家のお嬢さんだなぁ。肌が……水でも絞れそうだ」
男は背後の棚から皮鞭を取り出すと、躊躇なく振り下ろした。
ぱしんっ――。
千葉椿の身体に激痛が走り、布が擦れるたび傷口が裂けるように疼く。歯を食いしばり、禿げ頭を睨みつけた。
「……千葉美永に言われたの?」
「小娘、余計なことは聞くな。楽しんでりゃいいんだよ」
一発では足りないとでも言うように、男はいやらしく笑いながら、また距離を詰めてくる。
「いい肌だ……瑞々しくて――」
その手が顔に触れる寸前、千葉椿は男の手首を掴み、勢いのまま捻り上げた。
次の瞬間、男の腕が不自然な角度まで回り切る。
「ぎゃああああっ!」
禿げ頭は獣じみた悲鳴を上げ、目を吊り上げた。
そして怒りに任せて千葉椿を突き飛ばす。
千葉椿はベッドから転げ落ち、床に背中を打った。
「このクソ女! よくもやりやがったな! 今日こそ徹底的に――!」
男が突進してくる。
千葉椿は後退しながら、ベッドサイドの台に手を伸ばした。指先に触れたのは、冷たいガラス。
――灰皿。
千葉椿は息を殺し、動かずに待つ。
これが唯一の、生き延びるための一手。
男が飛びかかってくる瞬間、千葉椿は横へ身を滑らせ、巨体をかわすと同時に反転。
持ち上げた灰皿を、全力で振り下ろした。
ごんっ。
鈍い音。
禿げ頭の頭部が割れ、血が噴き出す。男は「ぐ……」と喉を鳴らし、どさりと床へ倒れた。
残る二人が顔色を変え、千葉椿へ駆け寄る。
「やべえ! 押さえろ!」
千葉椿はその隙に、最も近いバルコニーへ走った。
だが、足元を覗いた瞬間、背筋が凍る。
――二十八階。
迫ってくる男たちを一瞥し、周囲を高速で見回す。
男たちは、むしろ面白がったように笑った。
「跳べよ、千葉お嬢さん。ここ、二十八階だぜ?」
額に汗が滲み、背中は汗でぐっしょり濡れている。
体内の薬が回り始めているのがわかった。時間が経てば、理性が崩れる。取り返しのつかないことを――。
……だめ。
千葉椿が、そんな恥を晒すわけにはいかない。
千葉椿は迷わず身を投げた。
残った力を振り絞り、向かいのバルコニーへ跳び移る。着地と同時にガラス戸を引き開け、転がり込むように中へ入った。
「追わねぇのか?」
一人がもう一人に問う。
「お前、追えるなら追ってみろよ。あそこが誰の部屋か知ってんのか?」
「誰だよ。閻魔様の部屋か?」
「閻魔じゃねぇが……似たようなもんだ。あの女、入った時点で終わりだろ。羽鳥三郎様の部屋だ」
――そして千葉椿は、羽鳥三郎の部屋へ逃げ込んでいた。
室内は真っ暗で、指先すら見えない。
手探りで前へ進む。
……誰もいない?
人がいたら、侵入に気づかないはずがない。
そう思った瞬間――。
闇の中から、巨大な獣が跳び出したような気配。
千葉椿の目の前に立ちはだかる影。獣――ではない、人間だ。
見えないのに、わかる。
冷たく、圧倒的で、触れれば凍りつきそうな気配。
千葉椿が口を開くより早く、男の手が正確に喉を掴んだ。
「動くな。動いたら殺す」
氷片のような声が、頭上から落ちてくる。
千葉椿の身体が硬直する。薬で火照っていたはずの熱が、冷水を浴びせられたように引いていく。
――熱と冷。
身体の内側は燃え、外側は凍る。
薬の力は容赦なく回り、背中の服は汗で貼りつく。感覚が研ぎ澄まされ、理性が削れていく。
それなのに、この男の冷気が……妙に心地いい。
喉を掴む手の薄い胼胝。
微かに漂う、冷たいミントの香り。
千葉椿の理性は、音もなく崩れていった。
彼女は男の掌に頬を擦り寄せ、そして――俯いて、その手の甲に唇を落とした。
羽鳥三郎は、侵入者を絞め殺すつもりだった。
だが手の甲に伝わった湿った熱に、思わず指が緩む。
怒りが増す。
誰だ、この無謀な女は。
「……灯りをつけろ」
冷たい命令と同時に、室内の照明が点いた。
眩しさに千葉椿は目を細め、ゆっくりと開く。
至近距離にいた男の顔を見て――息を呑んだ。
