第4章 千葉家へ一度戻る
原野暁は、父である原野明和にその場で電話を入れた。
相馬大木は目を見開いたまま固まる。そこでようやく悟ったのだ。――自分は、とんでもない相手に喧嘩を売ったのだと。誰にでも噛みつけばいいってものじゃない。よりにもよって、原野嬢に手を出すなんて。
「そ、その……は、原野嬢、わ、私は……」
さっきまでの強気も、教務部長としての威圧も、影も形もない。今の相馬大木にあるのは、ただ自分の椅子を守りたいという情けない焦りだけだった。
だが、原野暁はその情けを拾ってやる気などない。通話を切ると、どさりとソファに腰を落とす。
「相馬先生、理事会の裁定が下るまで、そこで大人しく待ってて」
言い終えると、原野暁は千葉椿へ手招きした。
千葉椿は歩み寄り、原野暁の隣に腰を下ろす。腫れ上がった頬がひどく目立ち、正直かなり間抜けな面構えだ。
原野暁はちらりと見て、露骨に口元を歪める。
「ブサイク」
「うるさい」
そのやり取りを見ていた相馬咲は、さっきの電話一本で完全に腰が引けていた。原野暁が金持ちの令嬢だということは知っていた。だが、まさか叔父である教務部長の首にまで手が届くとは思っていなかったのだ。
相馬咲はおずおずと近づき、口を開きかける。
「その……あの……」
「『その』も『あの』もいらない」原野暁が氷みたいな声で遮る。「人は自分のしたことに責任を取るの。相馬咲、私と椿が手を出したのは、あんたが先に椿を侮辱したからよ」
言い終えた瞬間、教務部長室の電話がけたたましく鳴り出した。
相馬大木は受話器を見つめたまま、喉を鳴らす。額には汗。手は小刻みに震えている。
その様子が可笑しくて、原野暁は笑いを噛み殺した。
「相馬先生、出れば?」
相馬大木は首を横に振る。
「い、いや……出なくても……」
「どうして?」原野暁は冷たく言い放つ。「遅かれ早かれ向き合うことになるのに。事情も聞かず、経緯も確かめず、勝手に決めつけて学生を追い出そうとした。それが教務部長のやり方? 出て」
それでも相馬大木は、かたくなに首を振った。
原野暁は鼻で笑う。
「大したもんだと思ってたけど……電話一本でこのザマ?」
その言葉が落ちた直後、ドアの向こうに人影が現れた。
校長と副校長二人。三人は室内を見渡し、真っ先に相馬大木へ冷たい視線を向ける。
「相馬先生。理事会の決定により、本日付であなたは江川大学の教員ではありません。退職してください」
「坂東校長……! 坂東校長……!」
坂東校長は手を上げ、取り合わない。
「相馬大木。退職してください」
相馬大木は唇を震わせた。校長に縋れないと悟ると、最後の望みを原野暁へ向ける。
「原野嬢……原野嬢! 申し訳ありません! 私が悪かった! 私が……見る目がなかった! 事情も聞かずに勝手な判断をして……どうか、今回だけはお許しを……!」
原野暁は感情のない目で見下ろした。
「相馬先生。言ったでしょ。誰だって、自分の行いには責任を取る。あなたも例外じゃない」
「で、でも私は……!」
「はいはい、でもは終わり」原野暁は肩をすくめる。「外には学校より広い世界があるんじゃない? 相馬先生」
結局、相馬大木は学校を去るしかなかった。
◇
相馬大木がいなくなると、原野暁は千葉椿を病院へ連れて行こうとした。
だが校門を出たところで、千葉椿のスマホが鳴る。
画面を見た千葉椿の眉が、きつく寄った。
原野暁が覗き込む。
「どうしたの。誰から?」
千葉椿は画面を見せた。
「……小寺雪梅」
電話に出て数言。話が進むほど、千葉椿の表情は硬くなっていく。やがて通話を切り、息を吐いた。
原野暁が問う。
「何て?」
「千葉家に戻れって」
「一緒に行こうか?」
千葉椿は首を振る。
「自分のことは、自分で片づける」
原野暁は少し黙り、やがて頷いた。
「わかった。あんたが決めたなら、尊重する」
「……ありがとう、暁」
千葉椿が抱きつくと、原野暁は押し返す。
「やめて。気持ち悪い。変な方向に曲げようとしないで」
千葉椿は小さく笑った。
◇
千葉椿が千葉家に着いたのは、午前11時ちょうど。
かつて「家」だった豪邸を前に、彼女は門の前でしばらく立ち尽くした。拳を握りしめ、そして足を踏み出す。
玄関に入った途端、小寺雪梅が出迎えに来た。だが千葉椿の顔を見た瞬間、血の気が引く。
「……何、その顔。どうしてこんなことに!」
「私……」
言いかけた千葉椿の腕を、小寺雪梅が強引に掴む。
「いいから、こっち」
ぐいぐいと引っ張られ、千葉椿は裏口へ回された。
「なんで裏から?」
「黙って。早く。上で着替えて化粧しなさい」
「化粧? 何のために――」
「口答えしない!」
小寺雪梅は睨みつけ、千葉椿を階段へ押し立てるようにして上へ連れていく。
向かった先の部屋を見て、千葉椿は冷たく笑った。
「おば様。忘れたの? この家で私の物は全部捨てたでしょ」
小寺雪梅は足を止め、鋭く言い返す。
「今日は機嫌がいいの。余計なこと言わないで、空気を読みなさい」
そう言って、千葉美永の部屋へ押し込む。
「ほら、洗いなさい。汚いもの、全部落として」
浴室に一人残され、千葉椿は鼻の奥がつんとした。
――ここ、本当は自分の部屋だったのに。
ため息をつき、湯を張る。精油を数滴。湯気と一緒に香りが立ちのぼる。
……確かに、身体も心も洗い流したかった。
バスローブ姿で出ると、小寺雪梅が真新しい白いワンピースを用意していた。
「新品よ。あなたのために用意したの」
千葉椿は薄く笑う。
「後悔でもしたの?」
「いいから着なさい」
着替えさせられ、化粧も施される。鏡の中の自分は、腫れた頬を隠すために厚く塗り固められた、よそゆきの顔をしていた。
そしてそのまま、一階へ。
リビング。階段正面に座る千葉佳正が、千葉椿を見るなり作り笑いを浮かべる。
「ツバキ、戻ったか。ほら、こっちへ。林田さんに挨拶しなさい」
千葉椿は眉をひそめた。だが玄関からずっと引きずられてきた以上、ここで揉めれば外聞が悪い。
小寺雪梅に押されるまま、千葉佳正の前へ出る。
そして――ソファに座る男の顔を見て、千葉椿は息を止めた。
