第5章 陰謀
髭面で、肌は月面みたいにぼこぼこ。体格も、二百斤はゆうに超えていそうな大男だった。
男は彼女を見るなり、黄ばんだ歯を分厚い唇で隠しきれないほどに、にたりと笑う。
「これが千葉嬢か! いやぁ、とんでもねぇ美人だなぁ!」
褒め言葉とは裏腹に、口元の涎は途切れない。ねっとり絡みつくような視線が、千葉椿の肌を這い回る。気持ち悪い。今すぐ席を立って逃げ出したい。
「伯父さん、今日は……食事は遠慮する」
そう言って踵を返した、その瞬間だった。
千葉佳正が何か言うより早く、林田がぐいっと手首を掴んできた。さらに、手の甲を撫でるように指を滑らせる。目の奥の下卑た光が、いっそう濃くなる。
「千葉嬢、せっかく戻ってきたんだ。飯ぐらい食ってから帰れよ」
掴まれたところから、ぞわりと寒気が走った。無数の蛆が皮膚の上を這い回るみたいな不快感に、背中へ冷汗が滲む。
「……離して」
千葉椿が低く吐き捨てると、男はむしろ嬉しそうに口角を上げた。
「細っこいなぁ。こういう肌は、触り心地が――」
「離せって言ってる」
二度目の警告にも、林田は手を緩めない。
そこへ、千葉佳正が不機嫌そうに口を挟んだ。
「千葉椿、無礼だぞ。林田さんだ。気に入っていただけたのは、お前の福だ」
千葉椿は、もう取り繕う気もなくなった。力任せに腕を振り払う。
ばっ、とようやく解放される。
その途端、千葉佳正の顔が、すっと黒く沈んだ。
「千葉椿。林田さんに謝れ」
「謝る?」
千葉椿は冷え切った目で伯父を見た。
「なんで? 放埒なのは伯父さんのほうでしょ。両親が亡くなって、私と弟がまだ小さいうちに家業を奪った。そっちのほうが、よっぽどたちが悪い」
言い捨てて歩き出す。
千葉佳正の怒りが、ついに爆発した。
「執事! 次女様を止めろ!」
「かしこまりました」
執事の声が落ちると同時に、数人の護衛が千葉椿を囲んだ。
千葉椿は振り返る。千葉佳正を射抜く視線は、氷より冷たい。
「……千葉佳正。何のつもり?」
「何のつもり?」
千葉佳正は薄く笑って言い返す。
「わかってるだろう。賢いお前ならな」
そして、作り笑いを貼りつけたまま、ソファに座る林田へ視線を向けた。
「林田さん、千葉椿は――」
林田は満足げに頷き、また黄歯を覗かせる。
「千葉社長、気に入った。三日後が吉日だ。千葉椿を嫁にもらう」
そのまま千葉椿へ目を向け、いやらしく笑った。
「可愛い椿ちゃん。三日後、迎えに来るからな」
ずしり、と巨体が近づく。林田は手を伸ばし、千葉椿の頬を撫でた。
「柔らけぇ。瑞々しい。はは……ははは……!」
吐き気が喉元までせり上がる。千葉椿は奥歯を噛みしめ、無理やり飲み込んだ。
「……私があんなのに嫁ぐわけない」
「そうか?」
千葉佳正はソファに座り直し、淡々と命じる。
「執事。次女様を部屋に閉じ込めろ。結婚の日までな」
「かしこまりました」
執事が護衛に合図し、千葉椿は地下室へ押し込められ、鍵をかけられた。
林田は満足そうに笑う。
「千葉社長、じゃあ三日後に迎えに来る」
「ええ。林田さん、西区の土地の件は――」
「ははは。安心しろ。約束は守る。千葉嬢がうちに入ったら、すぐ手続きを進める」
「ありがとうございます」
◇
地下室は、千葉家の雑物置きだったらしい。薄暗い白熱灯が一つ。壊れかけの椅子が数脚と、古い机が一つ。ベッドすらない。
ここが自分の家だというのに、千葉椿は一度も足を踏み入れたことがなかった。空気は黴臭く、壁は湿っている。
逃げ道を探して、部屋中を漁った。扉、窓、隙間――どれも使えない。
棚をひっくり返し、箱を開け、上へ下へと動き回る。それでも、武器になりそうなものは何一つ見つからなかった。
がさごそ、がさごそ。
その物音に怯えた執事が、慌てて千葉佳正と小寺雪梅へ報告に走った。
しばらくして、扉の外に気配が集まる。
千葉佳正が扉の前に立ち、護衛が二人、左右を固めていた。
「開けろ」
「かしこまりました」
鍵が回り、がちゃりと扉が開く。
千葉椿は古椅子に腰を下ろしたまま、彼らを睨みつけた。
「千葉佳正。よく聞け。私は、父より年上のあんな男に嫁がない」
千葉佳正は鼻で笑う。
「お前に選択肢はない。三日後、林田さんが迎えに来る」
「私が大人しく従うと思う?」
「逃げてみろ」
千葉佳正の目が細くなる。
「逃げたら、お前の弟を病院から叩き出す」
千葉椿の呼吸が止まった。
「……卑怯。あんた、それでも人間? 弟は、あんたの甥でしょ」
「俺が気にすると思うか?」
千葉佳正は冷たく言い放つ。
「飯を食え。三日後、林田家へ嫁げば、お前の弟の治療は続けてやる。逆らうなら――」
最後までは言わない。だが、その目が答えだった。
千葉椿は、糸が切れたみたいに力が抜けた。弟の千葉峰――それが、この世で唯一の弱点。
自分のことなら、どうにでもなる。
でも、弟だけは。
「……ちっ、分かった」
千葉佳正は満足げに頷くと、踵を返して去っていった。
扉が閉まり、鍵がかかる音がする。
千葉椿は拳を握りしめ、爪が掌に食い込むほど力を込めた。
(どうする……逃げるなら、峰も一緒に)
(それができないなら……弟の脚は――)
考えた途端、胸の奥がぐしゃりと潰れた。
千葉椿は椅子からずるずると滑り落ち、床に座り込む。魂を抜かれた人形みたいに、膝を抱え、顎を乗せたまま動けない。
涙が、止まらなかった。
どれだけ時間が経ったのかもわからない。泣き尽くして、ようやく息が落ち着いた頃、千葉椿はふらりと立ち上がる。
(ここから逃げられないなら……結婚の日を待つしかない)
机の上に置かれた食事へ目をやった。粗末で、冷めている。
それでも――生きなければ、希望は掴めない。
千葉椿は箸を取り、無言で飯をかき込んだ。
◇
同じ頃。
羽鳥グループ、社長室。
羽鳥紅蓮は執務椅子に腰を沈め、書類へ目を通していた。
こん、こん、こん。
ノックの音が、静かな室内に響く。
