第6章 彼女の名前は千葉椿
「入れ」
特別補佐の玉城崇がドアを開けて入ってくる。
「社長、例の女の子の身元が割れました」
「割れた? 誰だ」
羽鳥紅蓮が顔を上げた瞬間、室内の空気がすっと冷えた。
玉城崇は肩をびくりと震わせる。
「千葉家の人間です。名前は千葉椿」
「千葉椿……今どこにいる」
いま彼女が目の前にいたなら、紅蓮は本気で噛み千切ってやる勢いだった。
「社長、おそらく千葉家です。それと……千葉佳正が、彼女を使って西区の土地と引き換えにするみたいで」
「西区の土地?」
「はい。何年も放置されてた荒れ地で、林田不動産の持ち物です。最近、千葉佳正が狙ってまして」
「つまり千葉佳正は、土地のために実の娘を差し出すってことか」
紅蓮が、鼻で笑う。
玉城崇は社長の顔色をうかがいながら首を振った。
「いえ……娘じゃなくて、姪です」
「……面白い」
紅蓮はもう一度、冷たく笑った。
「行け。その取引、きっちり成立させろ」
「えっ?」
玉城崇は目を瞬かせる。探せと言われて探した。ようやく見つけた。なのに、なぜわざわざ他人の腕の中へ押し込むのか。
「理解できないか」
「……はい」
玉城崇が小さくうなずくと、紅蓮の顔はさらに暗く沈んだ。
「俺を嵌めた女だ。代償を払わせる」
薄い唇が歪む。
「聞いたぞ。林田の旦那は、筋金入りの嗜虐家らしいな」
その笑みは、ぞっとするほど陰惨だった。
玉城崇の背筋に冷たい汗がつうっと走る。喉が鳴り、息が詰まりそうになる。
「……まだいるのか」
紅蓮の視線が刺さる。
「し、失礼します!」
玉城崇は足がもつれそうになりながら、逃げるように執務室を出た。
扉が閉まる。
紅蓮はひとり、さらに深く笑った。
「千葉椿……」
◇
三日など、あっという間だった。
その日――千葉椿の「結婚式」の朝。
小寺雪梅は使用人に命じ、椿を、急ごしらえで用意した客間へ連れてこさせた。
椿の顔に残っていた痣はすっかり消え、艶のある肌が戻っている。雪梅は満足そうに目を細める。
「千葉椿。今日は大事な日よ。余計な真似はしないこと。大人しく言うことを聞けば、弟の治療は続けてあげる」
椿は冷えた目で見返した。
「……おば様、脅してるの?」
「脅しだとして、何か問題でも?」
雪梅は平然と言い切る。
椿は拳を握りしめ、鼻から荒い息を吐いた。弟さえ人質に取られていなければ――この女の頭を叩き割っている。
「千葉佳正に会わせて」
歯を食いしばって言うと、廊下の向こうから甲高い笑い声が飛んできた。
「お父さんは表でお客さまの相手してるの! 千葉椿、いい子にして林田さんに嫁ぎなさいよ。あはは!」
千葉美永。
その声を聞いただけで、椿の胃がむかつく。
数日前、あの女は男を三人も呼び、椿を襲わせようとした。もし自分が早く目を覚ましていなければ――江川市中の笑いものになっていた。
椿の瞳に、濃い憎悪が沈む。
「千葉美永……よく私の前に顔を出せるわね」
椿が吐き捨てると、美永はけらけら笑いながら近づき、椿の顎を指でつまみ上げた。左右に揺らし、品定めするように眺める。
「ふぅん。ほんと美人」
頬を寄せる距離。動きだけは親しげで、吐く言葉は毒そのものだった。
「千葉椿、あんたみたいなの、あの夜どこの野良犬に食われたのかしらね。残念だわぁ。せっかく男を三人も用意してあげたのに、満足しないで逃げるんだもん」
椿のこめかみが跳ねる。
美永はさらに囁くように続けた。
「でも運がよかったじゃない。林田さんに嫁げるんだもん。もし林田さんじゃなかったら、あんたに生き地獄を味わわせてた」
言い終えると、美永は乱暴に椿を突き飛ばした。
「っ……!」
椿の身体がよろけ、危うく倒れそうになる。
怒りで全身が震えた。椿は美永を睨み据え、歯をぎり、と鳴らす。
「千葉美永……一生、私の手に落ちないよう祈りなさい。落ちたら――」
「楽しみにしてる」
美永は氷のような目を一瞬だけ向け、そして大笑いしながら部屋を出ていった。
残された空気が、重い。
小寺雪梅は使用人に合図する。
「ドレスを」
白いウェディングドレスが運び込まれ、椿は眉をひそめながら袖を通した。
ほどなくして――迎えが来る。
林田が、椿を迎えに。
椿はあの男を一目見て、喉の奥がえづいた。二度と視界に入れたくない。
……でも、今日だけは。隙を作るために。
林田は上機嫌で、椿の腕を引き寄せる。
「椿ちゃん、もうすぐ林田の奥さんだぞ? 嬉しいか?」
椿は視線すら向けたくなかったが、警戒を解かせるためだけに、小さくうなずいた。
それだけで林田は破顔し、黄ばんだ歯を隠しきれない。
「よしよし。嬉しいならいい。さあ、ホテルへ行こう」
ぐい、と手を引かれ、椿は玄関へ連れていかれる。
道中、招かれた客たちは面白がるように首を伸ばし、年の差のありすぎる二人を眺めるだけ。止める者は一人もいない。
千葉佳正は、椿が連れ出されるのを見届けると、胸のつかえが落ちたように大きく息を吐いた。
すぐに誰かが酒杯を持って近づき、祝いの言葉とともに杯を差し出す。佳正はにこにこしながら受け取った。
一方、椿は林田に引きずられるようにして、屋敷の前に停められた婚礼車へ押し込まれた。
車内。
椿は一言も発しない。頭の中だけが忙しく回る。
――どうやって逃げる。どこで逃げる。
飛び降りる?
無理だ。ドアはロックされ、速度も出ている。この速さで跳べば、死ぬか、助かっても一生ものだ。
やがて車はホテルへ到着した。
林田はこの結婚のために、それなりに金を使ったらしい。正面には大きな立て看板が置かれている。
『林田尤介さん・千葉椿女史 ご成婚おめでとうございます』
椿は、その文字を見て苦く笑った。
結婚式当日になって、相手の名前を知るなんて。
――おめでとうございます、ね。
椿は林田尤介に腕を掴まれたまま、1階の宴会場へ引きずり込まれる。
舞台へ。
客席はぎっしりで、逃げ道は見えない。
椿の視界が、すうっと暗くなる。
――どうする。
――どうすればいい。
ここにいるのは、全部、林田尤介の人間。
この檻の中から、私はどうやって抜け出すの……。
