第2章

 きっと、パイロットだ。コックピットに残された彼の血――あるいは彼の「なれの果て」――が、あれをここまで引き寄せたのだ。

 その熊は巨大だった。私が想像していたよりも、はるかに。鼻先を低く下げ、急ぐ様子もなく、斜面を這うように進んでいる。

 私は岩に身を押し付け、息を殺した。

「走るな」。十歳の頃、父と山へ行った時の声が蘇る。「もし遭遇しても、絶対に走るな」。あの時、私は呆れて目を丸くしたけれど。今はとてもそんな気分にはなれない。

 足が震えていた。膝の奥から込み上げる細かな震えが、どうしても止まらない。熊がふいに頭を上げ、ゆっくりとこちらへ首を巡らせた。思考がよぎる。――これで終わりなんだ。二度目のチャンスも何もかも、始まる前に、私はこの島で死ぬんだ。

 永遠にも似た、長い沈黙。

 やがて、熊は再び頭を下げると、機体の残骸の方へと戻っていった。

 足音が完全に聞こえなくなるまで、私は一歩も動けなかった。ようやく息を吐き出すと、手が激しく震え出し、岩に座り込んでしばらく呼吸を整えるしかなかった。手のひらから血が出ている――混乱の中、どこかで機体の破片に手をついたのだろう。今までまったく気づかなかった。

 大丈夫。よし、大丈夫だ。

 機体前方のコンパートメントから、緊急用キットを見つけ出した。この飛行機のことなら熟知している。何百回も乗ったし、どのパネルをこじ開ければいいかも正確に把握していた。まずはELT、緊急位置指示無線標識だ。。スイッチを入れると、ランプが緑色に点灯した。信号が発信される。誰かが傍受してくれていることを祈るしかない。

 次は高台だ。木立からできるだけ離れ、四方の空が見渡せる開けた場所を見つけるまで斜面を登った。そして、膝にレスキューシートを掛け、地平線を見つめて座り込んだ。

 一時間が過ぎた。いや、もっとかもしれない。太陽が傾き始めていた。

 誰も来ない。そんな考えが頭の片隅をよぎる。湊は誰も寄越さない。あなたは置き去りにされて、ここにいることすら誰にも知られていないのよ。

 私はその思考を無理やりねじ伏せ、ただ見張り続けた。

 その時だった。微かな機械音が聞こえたのは。それが何なのか完全に理解する前に、私は立ち上がっていた。ヘリコプターだ。北西の空に浮かぶ黒い点は、私に向かってではなく、海岸線と平行に飛んでいる。

 私はシートの角度を調整し、太陽光の反射をまっすぐにヘリへと向けた。お願い。気づいて。だが、ヘリは止まらない。私は角度を変え、再び太陽の光を捉え、腕が焼けるように痛くなってもじっとそのまま堪えた。

 ヘリの速度が落ちた。

 旋回した。

「ここよ」誰もいない空間に向かって、私は声に出していた。「私はここ」

 ヘリは三十メートル先に着陸した。ローターはまだ激しく回転している。完全に接地する前にドアが開き、一人の男が飛び出してくると、私のもとへ駆けてきた。

「怪我は?」彼はすでに私の手を取ろうとしていた。私が答えるより先に、血に気づいていたのだ。

「私……」自分の手のひらを見下ろす。傷は思っていたよりも深かった。「気づきませんでした」

「座って」冷たいわけではなく、ただ確信に満ちた声だった。彼は私を岩場へと導き、目の前にしゃがみ込んだ。そこで初めて、私は彼の顔をまじまじと見た。黒い髪。集中に引き結ばれた口元。そして、私の顔色を窺うように見上げたその淡い瞳は、傾きかけた西日を反射し、どこか心がざわつくほどの不思議な色をしていた。

 彼はジャケットの奥から救急キットを取り出し、手当てを始めた。その手つきは迷いがなく、安定している。何があったのかも、何も聞かずに傷口を消毒していく。それが――何と言えばいいのかわからない。ただ、胸の奥で強張っていた何かが、思いがけないほどふっと解けていくのを感じた。

「ここは深いな」彼は私の右の掌にガーゼを押し当てた。「このまま押さえていて」

 私は言われた通りにした。

 彼はまだ、なぜ私が無人島にたった一人でいるのかを尋ねてこなかった。手際よく、しかも丁寧に包帯をテープで留めると、サイドポケットからペットボトルの水とプロテインバーを取り出して差し出してくれた。夢中でそれを口に運びながら、自分がどれほど長い間飢えていたかを改めて思い知った。

「座席の後ろに乾いたジャケットがある」彼はすでにパイロットの方を向き、私に配慮して空間を与えてくれていた。私はジャケットを見つけ、袖を通した。

 彼が振り返った時、私は言った。「私、相沢麻衣です」

「堂本修平だ」彼は一度だけ頷いた。まるでそれで全てが解決したかのように。「誰か、連絡する必要のある人はいるか?」

 私は湊の約束を思い出した。「必ず迎えに来る」。

「いいえ」と私は答えた。「誰もいません」

 彼は小さく頷いてそれを受け入れると、すぐにまたパイロットと話し始めた。

 ここ数年感じたことがないほど、私の胸の奥は静かに凪いでいた。

 私は窓の外を見つめ、その感情に名前をつけることはしなかった。

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