第1章
瀬川穂乃視点
雷鳴が夜空を切り裂き、土砂降りの雨が降り注いでいた。
私はぬかるんだ道をよろめきながら進む。白いドレスはびしょ濡れで、妊娠七ヶ月の腹にぴったりと張り付いていた。一歩進むごとに、腹部に引き裂かれるような痛みが走る。
「あのしつこい野郎……!」
振り返ると、雨の向こうにオレンジ色の松明が揺らめき、こちらに迫ってくるのが見えた。柏木修平の手下たちが、飢えた狼のように私を追ってくる。
再び、腹に激痛が走る。私は歯を食いしばり、片手で膨らんだ腹を支え、もう片方の手でドレスの裾を握りしめて走り続けた。早産の兆候は明らかだったが、止まるわけにはいかない。
絶対に、連れ戻されたりしない!
稲光が空を裂き、記憶が奔流のように蘇る……。
――
一年前、C市、慈善オークション。
煌めくクリスタルのシャンデリアの下、私は見事な白いイブニングドレスを身にまとい、優雅にシャンパングラスを手にしていた。視線の先には、ボールルームの中心に立つ男――C市で最も危険な男、柏木家の当主、柏木修平。
私の恋人を殺した男。
『必ずあなたの仇は討つから』
私は柏木律の面影に、静かにそう誓った。私の恋人、愛しい柏木律、この冷酷非道な怪物に殺された。
深呼吸を一つして、私はゆっくりと柏木修平に近づいた。彼に接近し、誘惑し、油断したところを狙って命を奪う。
「柏木さん、あなたの慈善活動は本当に素晴らしいですね」
私は穏やかな笑みを浮かべ、会話の口火を切った。
柏木修平が振り返り、その深い黒い瞳が即座に私を捉えた。心臓が、訳もなく速く鼓動するのを感じた。
( 写真で見るよりずっと、破壊力があるじゃない……)
一八〇センチはあろうかという長身に、完璧な顔立ち。高価なスーツは、その屈強な体躯に合わせて仕立てられている。
「美しい方、何とお呼びすれば?」
彼の声は低く、人を惹きつける力があった。
「瀬川穂乃と申します。弁護士をしております」
「弁護士?」
彼は片眉を上げた。
「随分と……面白いご職業だ」
私は静かに笑い、グラスの赤ワインを揺らした。
「柏木さんは、女性弁護士を見くびっていらっしゃるのかしら?」
「誰のことも見くびりはしない。特に、慈善活動で俺に近づいてくる美しい女性はな」
彼は私をあからさまに品定めした。
「だが、どうも君は普通の弁護士ではないような気がするな、穂乃さん?」
(まずい! 勘が鋭すぎる)
注意を逸らさなければ。
――
オークション会場の、女性用化粧室。
鏡の前で化粧を直しながら、私は指輪の小さな仕掛けに指を触れさせた。この一見何の変哲もないルビーの指輪には、致死性の毒針が隠されているのだ。
背後で、足音が響いた。
鏡の中に柏木修平の姿が映り、心臓が跳ね上がる。私は振り返り、冷静な笑みを無理やり作った。
「柏木さん、ここは女性用の化粧室ですよ」
柏木修平は距離を詰め、洗面台の両脇に手をつき、私を完全に閉じ込めた。高価な生地越しに彼の体温が伝わり、その男性的ないい香りに眩暈がしそうになる。
「言っただろう、君にとても興味があると」
彼の唇が、私の耳に触れんばかりに近づく。
「瀬川穂乃、二十六歳。津木大学法学部卒。企業法務を専門とするスター弁護士」
私は平静を装った。
「お調べになったのですね?」
「見知らぬ女が近づいてくれば、当然調べる」
彼の指が、私の顎のラインをなぞった。
「だが、資料には書かれていないことがある……君が本当にここにいる理由だ」
私はゆっくりと手を上げ、指先を彼の胸のボタンに「偶然」滑らせながら、囁いた。
「もしかしたら……ただ、あなたの魅力に惹かれただけかもしれませんわ」
体が触れ合った瞬間、接触点から電流が走るのを感じた。この反応に、私自身が衝撃を受ける――どうして、仇である相手にこんな感情を?
柏木修平も明らかにそれを感じ取った。彼の呼吸が荒くなり、その瞳に危険な火が灯る。
「火遊びが過ぎるぞ、弁護士のお嬢さん」
「誤解ですわ」
私は声を制御しようとしながらも、大胆に彼の胸に手を押し当てた。
「私はただのしがない……」
言い終わる前に、外から銃声が轟いた。
――
オークション会場は、一瞬にして混沌に陥った。悲鳴、銃声、ガラスの割れる音が、恐怖の不協和音を奏でる。
柏木修平は私を庇うように背後へ引き寄せると、銃を抜き、冷静に襲撃者たちと対峙した。混雑したオークション会場を狙った、敵対組織の連中だった。
(絶好の機会!)
私の手は指輪へと動く。毒針はすでに伸びていた。修平の皮膚をわずかに傷つければ、数分で彼は死に至る。
復讐は、手の届くところにある。柏木律の無念は、ようやく晴らされるのだ。
息を殺し、私はゆっくりと手を持ち上げる。針は、彼の首にある頸動脈を狙っていた。まさに、一撃を加えようとした、その時――
「バンッ!」
横から弾丸が飛んできた。私はとっさに身を避けようとして、なぜかその軌道上に飛び込んでしまった。
「くそっ!」
肩に激痛が走り、生温かい血が白いドレスを瞬時に濡らしていく。
(ちくしょう! なんて運が悪い!)
修平は驚愕の表情で私を受け止めた。いつもは冷たいその瞳が、今はパニックに染まっている。
「穂乃さん! ちくしょう! なぜこんなことを!」
(なぜですって? 私はあなたを殺そうとしていたのよ、助けようとしたんじゃない!)
「わ、からない……」
かろうじて、それだけを口にした。
修平は私を強く抱きしめ、その声は震えていた。
「怖がるな、死なせはしない! 誰にも君を傷つけさせない!」
(私が、彼を庇って撃たれたと、本気で思っている。この、馬鹿な男!)
意識が遠のいていくのを感じる。体はコントロールを失い、後方へ倒れ込んだ。後頭部を大理石の床に強く打ちつけ、頭蓋に痛みが走る。
「穂乃! 瀬川穂乃!」
修平の叫び声が、どんどん遠くなっていく。
完全に意識を失う直前、私は心の中で悪態をついた。
「クソ……失敗した……」
