第3章

瀬川穂乃視点

九ヶ月後。

この九ヶ月間、私は修平の愛に、ゆっくりと浸っていった。

毎朝、彼は私の額にキスをして「おはよう」と囁く。日中は庭を散歩しながら、T市の物語を聞かせてくれた。夜には、彼の深く、心に響く渋い声で詩を読んでくれる。

彼の独占欲は依然として強烈だったが、私はこの完全に支配される感覚に慣れてしまっていた。さらに恐ろしいことに――それを楽しみ始めていたのだ。

でも……。

記憶の断片は、ますます鮮明になってきていた。夢の中のぼやけた顔が、次第に修平の顔と重なり始める。特にあの瞳――同じ深く黒い眼差し。優しく、それでいてどこか悲しみを帯びている。

夢にこの顔が現れるたび、胸が張り裂けそうに痛んだ。

もしかしたら修平の言う通り、私たちは本当に深く愛し合っていたのかもしれない。この辛い記憶は、ただの記憶喪失が残したトラウマなのだろうか。

私はこの断片的な記憶のことを、修平に話したことはなかった。何かが、この記憶は決定的に重要なものだと、本能的に告げていた。大切に守らなければならない、と。

今日までは……。

鏡の前で髪を整えていると、突然めまいに襲われた。胃のむかつきがこみ上げ、私はトイレに駆け込み、数分間えづき続けた。

まさか……。

二十分後、私は震える手で妊娠検査薬を握りしめ、はっきりと浮かび上がった二本の赤い線を凝視していた。

妊娠。

「穂乃?どこにいるんだ?」

外から修平の声がする。

私は深呼吸をして、ゆっくりとバスルームから出た。修平は私の手にある妊娠検査薬を見た瞬間、完全に凍りついた。

「これは……?」

「私たち……赤ちゃんができたの」

時が止まったかのようだった。

「なんてことだ!穂乃!」

修平は狂喜して駆け寄ってくると、私を抱き上げて何度もくるくると回した。

「赤ちゃんができた!本当に俺たちの赤ちゃんが!」

普段は冷徹なこの人が子供のようにはしゃぐのを見て、私も思わず笑ってしまった。

「修平!降ろして!」

私は彼の肩をふざけて叩いた。

「そんなに回されたら、目が回っちゃう!」

彼はすぐに動きを止め、私を慎重に床に降ろすと、ゆっくりと私の前に跪き、まだ平らな私のお腹に震える手を当てた。

「俺の子……俺たちの子……」

彼は敬虔に私のお腹にキスをする。その崇拝するような表情に、私の胸は締め付けられた。九ヶ月間の彼の気遣いと庇護が、一気に胸にこみ上げてくる。

もしかしたら……もしかしたら私は、この危険な男に本当に恋をしてしまったのかもしれない。


二週間後、結婚式当日

私は何億円もするような純白のウェディングドレスをまとい、控え室に座っていた。メイクアップアーティストが、ダイヤモンドをちりばめたティアラを私の頭に載せている。

「今日の穂乃様は本当にお美しいです。修平様もきっと息を呑まれますよ」

私は鏡の中の自分に微笑みかけた。心から幸福感に満たされていた。

突然、ドアが乱暴に押し開けられた。

倉持泉が全身黒の服で入ってきた。その顔は、悪意に満ちた満足感で歪んでいる。

「あら、花嫁さんの準備はできたかしら?」彼女は嘲るように言った。

メイクアップアーティストは気を利かせて部屋を出て行った。

「倉持泉さん、今日は私の結婚式よ。邪魔をしないでちょうだい」

私は冷たく言った。

「邪魔?」

彼女は私に近づき、悪意に満ちた目で言った。

「お祝いを言いに来ただけよ。男に完全に騙されているあなたに、おめでとうってね」

「何の話をしているの?」

「修平が本当にあなたを愛しているとでも思ってるの?」

倉持泉は鼻で笑った。

「あいつはあなたを弄んでいるだけ!私を弄んだみたいにね!」

「嘘よ」私は立ち上がった。胸の中に不安が広がっていく。

「嘘?あいつがなぜあなたを選んだか知ってる?あなたが記憶を失っていたからよ!あいつが好きなように色を塗れる、白紙の状態だったから!」

「もうやめて!」

「あなたなんて愛してない!」

倉持泉は攻撃を続ける。

「あなたを支配する感覚を楽しんでるだけ!子供を産んだら、あなたも捨てられるわ。私が捨てられたようにね!」

「黙って!」

私は倉持泉に飛びかかった。怒りが理性を食い尽くす。

私たちは揉み合いになり、その中で倉持泉は意図的に私を化粧台の方へ突き飛ばした。後頭部を鋭い角に強かに打ち付け、一瞬で激痛が走る。

その瞬間、記憶の堰が、完全に決壊した。

律……私の、柏木律……。

全ての記憶が、津波のように押し寄せてくる。C市のオークション、復讐計画、毒の指輪、そして何よりも――私が復讐を誓った恋人、柏木律!

あの優しい人のこと、彼が「愛してる」と言ってくれたこと、私たちの復讐計画を思い出した。そして最も決定的なのは、柏木律の死……。

あの雨の夜、修平が彼をその手で殺したこと。

そして私は――その殺人犯に、この九ヶ月間、恋をしていたのだ!

「いや……いや……」

私は床に崩れ落ち、涙が止めどなく溢れた。

ドアが勢いよく開き、修平が駆け込んできた。

「どうしたんだ!」

彼はすぐに跪いて私を抱きしめた。

「穂乃、どうした?くそっ!怪我をしているじゃないか。病院に行かないと……」

「触らないで……」

私は彼の手を振り払った。心は無限の後悔で満たされていた。

私は仇に恋をした。柏木律を裏切った。仇の子供を身ごもっている。

神様、私はなんてことをしてしまったの?


この結婚式を、続けなければならない。愛のためではなく、復讐のために。

庭はおとぎ話のように飾り付けられ、高価な装いのゲストたちが白い椅子に座り、祝福の笑みを浮かべている。

私は庭の中央にあるアーチに向かって、ゆっくりと歩を進めた。そこには私の仇――柏木修平が立っている。

彼はオーダーメイドの黒い燕尾服を身にまとい、その瞳は深い愛情に満ちている。だが今となっては、この愛情がすべて偽りだとわかる。

「綺麗だよ、穂乃」

彼は私に近づき、手を差し伸べた。

私は彼の手のひらに自分の手を重ねた。ウェディングドレスの下には、いつでも抜けるようにナイフが隠してある。

神父が誓いの言葉を述べ始める。

「柏木修平、あなたは瀬川穂乃を妻とし、貧しい時も富める時も、病める時も健やかなる時も、死が二人を分かつまで、彼女を愛し、守ることを誓いますか?」

「誓います」

柏木修平の声は固かった。

「命をかけて、彼女を守ります」

なんて皮肉だろう。私の恋人を殺した男が、今、私を守ると誓っている。

神父は私に向き直った。

「瀬川穂乃、あなたは修平を夫とし……」

私は彼が言い終わるのを待たなかった。ウェディングドレスの下から、ナイフを抜き放つ。

私は冷たく言った。

「ええ、誓います……あなたを、殺したいと」

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