第4章
水野源は人をつかまえて聞いて回ったが、返ってくるのは「知らない」ばかりだった。
そうして三人は、氷みたいに冷えた廊下でがたがた震え続ける。神崎家の人間は顔も見せない。煎じ詰めた苦痛――ただそれだけが延々と続く。
水野麻子が真っ先に逃げ腰になった。
「……心愛を見てくる」
水野心愛も同じ病院にいる。だが場所は別棟、産婦人科だ。
水野源も水野篤志も限界だった。けれど、ここで席を外す勇気もない。歯を食いしばって、ただ耐えるしかなかった……。
胸の内では不満が渦巻いているくせに。
――彼らはまだ知らない。これは、始まりにすぎないということを。
紬の耳には、機械の「ピッ、ピッ、ピッ」という音がまとわりついていた。人の声もする。けれど、遠い。霞がかかったみたいに輪郭が曖昧だ。
ただひとつだけ、妙にくっきりした声がある。
『紬、紬……おい、つむき!』
『早く起きろ。な? 起きないなら――』
ぶんぶん、ぶんぶん。
まるで小さな蜂の群れが耳元で騒いでいるみたいで、やたらとうるさい。
……誰の声?
紬の睫毛が震え、ゆっくりと瞼が開いた。
飛び込んできたのは、真っ白な壁。
ベッドの周りには大勢の人がいて、紬は唇を結び、怯えるように視線を巡らせた。
いちばん先に声を上げたのは神崎斗真だった。
「紬! 目が覚めたか! 俺だ、斗真おじさんだぞ……!」
神崎家の者たちは息をするのも忘れたように、紬を見つめている。
紬の頭は真っ白だった。
「……斗真おじさん?」
言葉は、単語をなぞるみたいに平坦だった。表情も乏しく、壊れそうな人形みたいに見える。
神崎吉弥は口を真一文字に結んだ。
痩せ細った紬がベッドに横たわると、ベッドがやけに大きく見える。胸が締めつけられて、息が苦しい。
斗真は声を落とし、できるだけ優しく言った。
「紬。俺はママの兄で、神崎斗真だ。……覚えてるか? さっきまで電話、くれただろ」
紬の睫毛が震え、しばらくして小さく「うん」と頷いた。
思い出した。
電話した。斗真おじさんに。
でも、返事はなかった。
――いらない子なんだって、思った。
「……迎えに、来たの?」紬がかすれた声で聞く。
ベッドの前の大人たちが、一斉にぶんぶん頷いた。
神崎颯介が言う。
「紬、俺は颯介おじさんだ。迎えに来た。いっしょに帰ろう」
神崎吉弥は喉を詰まらせ、深く息を吸ってから言った。
「そうだ。帰ろう。これからは誰にもいじめさせん。いじめた奴は、おじいちゃんが許さん」
紬は目だけを動かして皆を見た。
帰る……?
帰ったら、また捨てられない?
叩かれない?
ご飯、もらえる?
黙り込んだ紬を見て、神崎家の男たちは焦った。誰も子どもの扱いに慣れていない。
視線が神崎雅志と神崎拓海へ集まる。
長男の神崎雅志は四十歳で子どもが二人。次男の神崎拓海も三十八で二人いる。
だが雅志は子どもをあやすタイプじゃない。少し迷ってから言った。
「紬は、何が心配だ」
冷たい声が出てしまい、兄弟たちに睨まれる。
拓海は咳払いしたが、もともと無口で言葉が出ない。焦ってその場で回りそうな顔をしている。
斗真は小さく息を吐き、ベッドの縁に身を寄せた。紬の頭をそっと撫で、柔らかい声にする。
「紬。斗真おじさんに教えて。紬の名前は?」
紬は天井を見つめ、しばらくして答えた。
「紬、名前ない。紬は……紬」
パパは言った。名付けるのが面倒だ、弟が生まれてから考える、と。
だから“紬”は、ママが呼んでくれた名前だけだった。
斗真の胸が痛む。
名前すら与えられない子が、水野家でどんな日々を――。
怒りを飲み込み、さらに優しく問う。
「じゃあ、紬は今、何を考えてる?」
紬はゆっくり視線を戻し、目の前の男を見る。
あの日、世界は闇と氷で閉じていた。
そこへこの人が――闇を割る光みたいに現れた。
紬は唇を尖らせ、小さく聞いた。
「斗真おじさん……帰ったら……ごはん、ある?」
その場の空気が止まった。
紬は続けて、さらに小さく。
「……叩く?」
その二言が、神崎吉弥の涙腺を壊しかけた。
この子は、飯があるかを心配し、殴られるかを恐れている。
水野家で、どれほど虐げられていたのか。
吉弥は背を向け、唇を噛みしめる。目の縁が赤い。
兄弟たちも拳を握りしめたが、紬を怖がらせたくなくて、表情に出せない。
斗真は紬の小さな手を握り、自分の頬に当てた。声が掠れる。
「紬、いい子だ。帰ったら食べたいもの、何でも食べていい。誰も叩かない」
「ほら、これが雅志おじさん。拓海おじさん、颯介おじさん……みんなすごい人だ」
「みんなで守る。もう誰にも傷つけさせない」
紬は布団を握り、長い間黙っていた。
そして、ぽつりと言った。
「斗真おじさん……紬、押してない。パパとおじいちゃん、あやまれって言った。紬、あやまらない……」
頑固に繰り返す。小さな顔に意地が浮かび、目は灰色に沈んでいる。
――言うことを聞かない悪い子だって思われたら、また捨てられる?
斗真は喉が詰まり、目が赤くなる。吉弥も堪えきれず目尻を拭った。
雅志が静かに言った。
「雅志おじさんは信じる。お前は悪くない。謝らないのが正しい」
斗真も頷く。
「悪いのはあいつらだ。紬は悪くない。よく耐えた」
その瞬間、紬の口が歪み、涙がぽとぽと落ちた。
ずっと我慢していた涙が、勝手に溢れ出す。
顔はまだ意地を張っているのに、声はしゃくり上がる。
「でも……パパ、信じない」
「紬が弟を殺したって言った」
「おじいちゃんも、謝らないなら出さないって……」
ようやく、訴える相手ができた。
三歳半の子どもだ。どれほど強がっても、悔しい。
斗真は怒りを抑えきれず吐き捨てた。
「あいつは父親の資格がない!」
雅志が低く制した。
「斗真」
斗真は唇を噛んで黙る。だが心の中は煮えたぎっていた。外で待っている水野源を思い出し、ベッドを解体して鉄パイプで殴りに行きたい衝動に駆られる。
紬は泣き疲れ、すぐ眠ってしまった。
病室の外で、斗真が堪えきれず問う。
「兄貴、水野家をこれで済ませるのか? 破産だけじゃ足りない」
雅志は袖口のボタンを外し、ゆっくり腕まくりをした。
淡々と、ただ一言。
「八対一。足りるか」
