第2章
カレブの腕が、鉄の万力のように私の腰へ回される。布越しに伝わる体温が、熱すぎるほどだった。呼吸が一瞬だけ乱れる。
いつもそうだ。圧倒的な侵略性を滲ませながら、越えていい線と駄目な線だけは、冷酷なほどきっちり引く。
「離して」
私は無理やり、曇った彼の瞳を見上げた。
「カレブ、自分の立場を忘れないで」
「あなたを買い戻したのは、あなたの気まぐれに付き合うためじゃない。煽っておいて引く――そんな遊びに協力する気はないわ。常に頭は冷やしておきなさい」
その言葉が落ちた瞬間、腰を締めつけていた腕が、びくりと硬直した。
深い眼の奥で、危険すぎる暗い光が一瞬だけ閃く。抑えつけた苛立ちと、言葉にしきれない衝動。……結局、彼は手をほどいた。
私は迷わず立ち上がり、車のキーを掴んで外へ出る。
運転席に滑り込むと、乱暴に襟元を引っ張った。さっき触れられた場所が、まだ焼けているみたいだった。
――最悪。触れもしない狼男に、計画を乱されるつもりはない。もっとも、この欲求不満もすぐ終わる。
会社に着くなり、私用端末に最上位の暗号化通知が弾けた。
「お客様、高級伴侶型リアムが発送されました。明日到着予定です」
画面に浮かぶ、金色の毛並みの狼男のホログラムを見て、私は満足げに眉を上げる。小柄で、目つきは従順。なにより――全方位サービス対応。
退勤後、私は市中心部のハイエンドモールへ直行した。これから始まる夜の生活に備えるには、準備が必要だった。
わざと小さめのチェックのシャツを何枚か選ぶ。地下1階のプライベートな大人向けフロアの前を通りかかった瞬間、ショーウィンドウの展示に視線を縫い止められた。
リアムは、そういう目的のための伴侶。なら、迷う必要はない。
私はそのままカードを切って、黒一色の、やたらと凝った造りの本革拘束ベルト一式を手に入れた。
アパートの玄関を開ける。灯りはついていない。空気が重い。息がしづらいほどの緊張感が漂っていた。
影の中にカレブが立っている。上は何も着ていない。はち切れんばかりの逞しい筋肉の上に、シャワー上がりの水滴がまだ残っていた。
「何を買った」
私が照明に手を伸ばすより早く、彼の巨体が前へ出て道を塞ぐ。視線は、私の持つショッピングバッグに釘付けだった。
「あなたには関係ない、カレブ」
眉をひそめ、横をすり抜けようとする。だが彼は聞く耳を持たない。
無表情のまま袋を奪い取り、包装を乱暴に破いた。骨ばった指の大きな手が、小さめのチェックシャツを引きずり出す。
そして――それを、彼は無理やり身にまとった。
小さすぎる。布はぴんと張りつめ、誇張された胸筋に押し上げられて今にも裂けそうだ。滑稽なはずのサイズなのに、笑えるどころか、目に突き刺さるほどの雄の色気が漂う。
「きついな」
見下ろすように睨みつけてくる。黒い目は、今にも雨が降り出しそうなほど重く陰っていた。
「……こういうサイズが好きなのか?」
心臓が一拍、抜けた。でも私はすぐに平静を装った。
「今すぐ脱いで。それはあなたのために買ったんじゃない」
カレブの動きが、完全に止まった。
空気が凍りつく。
「じゃあ、誰にやる」
一語ずつ噛み潰すみたいに問い詰める。顎の線が張りつめ、割れそうだった。
私は顎を上げ、一歩も引かずに視線を受け止める。追加の要求を拒んだ護衛に、私生活を説明する義理なんてない。
「私のプライベートよ。あなたは自分の仕事だけしていればいいの。一線を越えた質問はしないで」
彼は奥歯を噛みしめ、三秒間、私を射抜くように見た。次の瞬間、シャツを乱暴に引き剥がして床へ叩きつける。
「……承知しました。主様」
彼は自室へ向かう。背中から、歯ぎしりの音が聞こえてきそうだった。
夜、ベッドに横たわりながら、私は明日リアムをどう調教するかを頭の中で何度も組み立てる。久々の夜の生活。正直、期待している。
そのとき、コンコン、とノックがした。
こんな時間に。カレブ、今度は何の癇癪?
私は勢いよくドアを開けた。
「あなた、何――」
声が喉で途切れる。
ドアの向こうの大柄な狼男を見た瞬間、瞳孔が縮んだ。
カレブは上半身裸で、筋肉が張り、硬く引き締まった肌の下で血管がうっすらと脈打っている。そして、その身体には――
今夜私が買ったばかりの、あの革の拘束具が、容赦なく食い込んでいた。
漆黒の極上レザー。ベルトが隆起した胸筋の縁へ深く沈み、野性と力を際立たせる、危険で淫靡なラインを描き出している。
美しい首筋を辿った先には、重い首輪。冷たい金具が、上下する喉仏の下でがっちりと留められていた。荒い呼吸に合わせ、金属のバックルが廊下の薄暗い光を冷たく跳ね返す。
濃密で、圧倒的なまでに侵略的な雄の匂いが押し寄せた。
リアムのために買ったはずの玩具が、いまは所有欲で膨れ上がったカレブの身体を縛っている。
「……正気?」
口をついて出た。怖いからじゃない。視覚が受ける刺激が強すぎて、息が完全に乱れたからだ。
カレブが一歩、詰める。圧迫感のある巨体が、廊下の光を根こそぎ遮った。
彼は少しだけ俯く。首輪の締めつけに逆らうように、喉仏が苦しげに上下し――湿った、いやらしい音が喉の奥で鳴った。
「買ってきたのは、俺に見せたいからだろ」
掠れた声。隠しもしない嫉妬。それに、本人も気づいていない不器用な探りの色が混じっていた。
「見るなら……どうして俺じゃない」
心臓が暴れる。だが理性が、警報を鳴らした。
「脱いで。今すぐ」
胸の奥の、見慣れない震えを押し殺す。
――気づかせるわけにはいかない。彼のシステムに、愛なんて存在しない。
「最後に言う、カレブ。これはあなたが触るものじゃない」
声の芯を強引に整え、冷たく切り札を突きつける。
「明日、家に新しい友人が来る。彼に、綺麗な状態で――ちゃんとこれを着せる必要がある。だから今は、私の視界から消えて」
カレブは、その場に釘付けにされたように動かなくなった。
私を食い尽くしそうな占有欲が、瞳の奥で渦を巻く。それでも怒りは爆発しない。ただ、ひどくゆっくりと顔を上げた。
廊下の空気が、限界まで張り詰める。
「……いい」
首輪の金属環が、鈍い音を立ててぶつかった。口元に浮かぶのは、危険すぎるのに、どこか自嘲めいた冷笑。
カレブは、さらに声を低く落とした。
「新しい友人、か……明日、そいつがこの扉を生きてくぐれるよう、祈っておけ」
