第1章

沈村薫子は、夫・藤原智史のスーツのズボンポケットから、真珠付きのレースショーツと、ホテルのルームキーを見つけた。

ショーツは見覚えのないブランド。レースの縁に真珠が細い鎖みたいに連なっていて――少なくとも、自分の趣味じゃない。

カードキーには安田ホテル、1808号室。

指先でそのカードをきつく握りしめる。角が掌に食い込み、じわりと痛みが走った瞬間、麻痺していた思考が少しずつ戻ってきた。

……ふん。今度は誰と寝たんだろ。

沈村薫子は瞬きをして、耐えて、耐えて、それでも耐えきれず。カードキーを握ったまま家を出た。

安田ホテルは東区。車で20分。

何も考えていないようで、全部考えていた。赤信号でふと手元を見ると、指が小さく震えている。

薫子はその手をハンドルに押しつけ、震えを押し殺した。

エレベーターで18階へ。長い廊下。暗い赤のカーペットが足音を吸い込んでいく。

1808号室のドアは、少しだけ開いていた。

薫子は扉の前で足を止め、中から漏れる声に耳を澄ませる。

女の笑い声。甘ったるくて、語尾に媚びが絡む。

そっと押して、隙間から覗く。

リビングのソファで、男と女がキスをしていた。

女はキャミワンピで、男の膝にまたがり、首に腕を回している。スカートの裾は高くたくし上げられ、あの真珠レースの縁が覗いていた。

男はシャツのボタンを開けたまま。片手は女の腰を押さえ、もう片方はソファの背に置いている。

「智史さん……」

女が呼ぶ。吐息の混じった、いやらしい声。

薫子は扉口に立ち尽くし、胸を針金で締めつけられるみたいに痛くて、息ができなかった。

下唇を噛みしめる。鉄錆の味が滲んだ瞬間、力いっぱいドアを押し開けた。

開く音に、女が顔を上げる。頬は赤く、唇は濡れて艶めいている。

次の瞬間、女は男の胸へ隠れるように身を寄せた。

「智史、誰か来た……」

藤原智史が振り返る。まるで薫子が来ることを最初から知っていたみたいに、切れ長の目に驚きは一欠片もない。

彼は女の顎をくい、と持ち上げた。

「気にするな」

そう言って、また口づける。

薫子は、指先まで震えるほど心臓が痛んだ。

五年前。付き合い始めたばかりのころ。彼女は交通事故に遭った。

智史は病院へ駆けつけ、脚を震わせながら医師の手を掴み、膝をついて「助けてください」と懇願した。

縫合中も廊下で待ち続け、出てきたときには目が真っ赤で。理由を聞けば「大丈夫、さっき緊張しすぎただけだ」と笑った。

あのころは、この人は本当に自分を大切にしてくれている――そう信じていた。

だから結婚してから、地方のデザイン会社で部長職のオファーを断った。遠距離は嫌だ、と彼が言ったから。

それでも手放す価値はあると思っていた。

けれど、藤原智史は金を手に入れた途端に変わった。

自分はもう、彼に釣り合わないのだと。

引き留めたことがないわけじゃない。

メッセージを送っても返事はない。食事をしたか尋ねれば「お前には関係ない」。

努力すれば、耐えれば、愛してくれた人は戻ってくる。

あれほど愛し合ったのだから。ずっと、そう思い込んでいた。

でも今、ソファの二人を見て――ふっと、どうでもよくなった。

藤原智史が坂原千尋を離し、薫子を嘲るように見た。

「見物は済んだか? まだなら、もっと刺激的なのもあるぞ。見るか?」

坂原千尋は彼の胸に縮こまり、薫子を見上げて小声で言う。

「智史、やめて。……奥さんなんだし……」

智史は千尋を見下ろし、口角だけ上げた。

「奥さん? こいつが?」

薫子は拳を握りしめたまま、ふいに笑った。目の奥がつんと痛い。

「藤原智史。型にはめたみたいな芝居、楽しい?」

彼の眼底に陰が落ちる。

薫子は息を吸い、どこから湧いたのか分からない勇気で、近くの椅子に腰を下ろした。

「二人芝居を見せたいなら、別に見てあげてもいいよ。無料だし。面子くらい立ててあげる」

智史の顔色が沈む。千尋を放し、一歩ずつ薫子へ近づく。

「沈村薫子。恥ってもんがないのか?」

胸が千切れそうに痛い。それでも薫子は顎を上げた。

「あなたのほうが、よっぽど恥知らずじゃない?」

智史は冷たく薫子を見つめ、ふっと笑う。

「怒ったか? 受け入れられないなら出ていけ。離婚届はそこにある。署名しないのはお前だろ」

薫子は滲む視界を瞬きで追い払う。

一年前、彼はもう離婚届を突きつけていた。

壊れて腐りきった関係を必死に繕おうとしていたのは、自分だけ。

心臓の痛みは、いつの間にか麻痺に変わっていた。

「……いい。あなたがそう言うなら」

それ以上は何も言わず、薫子は背を向けた。

智史は、彼女が本当に出ていくのを見て喉仏を強く鳴らした。

……どういうつもりだ。まさか、ようやく署名する気になった?

だがすぐに否定する。

あいつが離れるはずがない。今の薫子は専業主婦だ。自分が与えている暮らしを失ったら、外で生きていけるわけがない。

そう思うと、智史は鼻で笑い、興味を失った。

……

薫子は車に乗り、窓を下げた。夕暮れの風が流れ込む。

少し冷たくて、頬を撫でるように吹き、最後の朦朧まで吹き飛ばした。

長いこと車内で座り、気持ちを整えてからスマホを取り出す。

約1年、登録したまま一度もかけなかった番号。

コール2回で繋がった。

「沈村薫子?」

穏やかな男の声。

「どうした、急に電話なんて」

薫子は一拍置き、淡々と言った。

「先輩。前に海外支社でデザイン部長が足りないって言ってましたよね。……その席、まだ空いてますか?」

一瞬の沈黙。すぐに笑い声が返る。

「空いてる空いてる。ずっとお前のために取ってある! やっぱりな、いずれ決めると思ってた。あのプロジェクトのリソース、知ってるだろ。国内じゃ二つとない服飾産業チェーンだ。収入も今の10倍だぞ。成果を出せば、将来は支社の最大株主も夢じゃない」

鈴原靖はデザイン業界の第一線にいる男だ。

彼の会社は業界最大級のサプライチェーンを持ち、今年から海外展開を本格化させていて、一年前から薫子に声をかけていた。

彼女が行かなかったのは、藤原智史を離れたくなかったから。

今思えば、全部、自分の独りよがり。

薫子は言った。

「……分かりました。行きます」

向こうがまた一拍沈黙する。あまりに即決で驚いたのだろう。

「本当に? 前は、離れたくないって、考えるって言ってたのに」

薫子は窓の外、ホテルの18階を見上げた。あの部屋の明かりは、まだ点いている。

視線を戻し、すぐには答えない。

正直、心はまだぐちゃぐちゃだ。長年の情は、そう簡単に切れない。

スマホ画面の日付を見て、黙って計算する。

1か月。

国内の仕事の引き継ぎが残っている。最低でも1か月は必要だ。

――なら1か月。結婚に与える最後の猶予。

薫子は改めて口を開いた。声が少しだけ柔らかい。

「こっちで片づけることがあって……1か月くらいかかります。待ってもらえますか?」

短い沈黙ののち、答えが返る。

「いいよ。1か月後、待ってる」

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