第4章

沈村薫子は殴られて身体がぐらりと揺れ、背中をクローゼットに叩きつけた。鈍い音が部屋に沈む。

ゆっくり顔を上げ、目の前の男を氷みたいに見据える。

さっきまで母の墓前に花を供えていた男が、帰宅した足で浮気相手のために妻を殴る。――そんな男に、どう見えたって「夫」とは呼べない。

藤原智史は彼女の視線を受け、ほんの一瞬だけ目が泳いだ。胸の奥を掠めた後ろめたさ。

だが次の瞬間には、怒りがそれを焼き尽くす。

「そこで死んだふりすんな!」

智史は薫子の手首を乱暴に掴むと、そのまま引きずるように部屋を出た。

「病院へ行く。千尋はいまショックで点滴中だ。お前は今日、跪いて謝れ」

薫子は魂を抜かれた人形みたいに、黙って連れていかれた。喧嘩もしたくない。騒ぐ気も起きない。耳の奥がキーンと鳴って、胃がひっくり返るように気持ち悪い。

――見てみたい。自分がどうやって、千尋を『誘拐』したことになるのか。

車は夜の街を狂ったように飛ばし、市立病院の前で急ブレーキをかけて止まった。

智史は薫子を掴んだまま病棟へ駆け込み、勢いよく病室のドアを押し開ける。

「智史さん……」

ベッドの上の坂原千尋は患者服で、目の周りが赤く腫れていた。薫子の姿を見た途端、怯えたように布団の中へ縮こまる。

「兄嫁まで来たんですか……智史さん、兄嫁を責めないで。きっと私が何か気に障ることをして……だから兄嫁が、人に頼んで私を脅しただけで……」

弱々しく作った声。ぞわりと鳥肌が立つ。

薫子は冷たい目で、千尋を上から下まで眺め――ふっと鼻で笑った。

智史の顔が青黒くなる。

「何を笑ってる? 人をあんな目に遭わせておいて、まだ笑えるのか」

「演技が下手すぎて可笑しい。あと、あなたが救いようもなく馬鹿なのもね」

薫子は失望と冷気を乗せたまま、智史をまっすぐ見た。

「藤原智史、目を開けて見て。誘拐されたって言うなら、スマホは取り上げられるでしょう。なのに、落ち着いてあなたに電話して助けを求められるの?」

さらにソファに放られたスカートを指す。

「誘拐されたのに、服は皺ひとつない」

薫子は一歩踏み込み、淡々と追い打ちをかけた。

「それに、ショックで大変なんでしょ? なのにネイルは一本も欠けてない。アイラインも滲んでない。今どきの誘拐犯って、攫ったあとに化粧直しとネイルまでしてくれるの?」

坂原千尋の顔が凍りつき、視線が泳ぐ。反射的に手を布団の中へ隠した。

「……隙を見て……」

「もういい!」

智史が怒鳴り、薫子の言葉を遮った。

薫子が最初の一言を口にした瞬間から、智史だって違和感には気づいていた。馬鹿じゃない。こんな穴だらけの嘘が見抜けないはずがない。

けれど――薫子の冷静さ。嘲り。高いところから見下ろす目。

それが、彼の自尊心を容赦なく抉った。

昔なら薫子は泣いた。信じてと縋った。必死に潔白を証明して、震える声で謝った。

今の薫子は違う。まるで局外者みたいに、白痴でも見るような目で自分を見る。

その屈辱が苛立ちになり、千尋が嘘をついたかどうかなど、追及する気さえ失せた。

ただ、薫子の「骨」を折ってやりたかった。

「沈村薫子。連れてきたのは謝罪させるためだ。探偵ごっこをさせるためじゃない」

智史は陰のある目で言い切る。

「千尋が怯えたのは事実だ。お前が普段から当たりがきついのも事実。今すぐ謝れ」

薫子は理解した。

彼は分かっている。嘘だと分かっていて、潰さない。

ただ自分を狙い撃ちしたいだけだ。

今日、本当に誘拐していようがいまいが、謝れと言われたら、謝らされる。

薫子は、込み上げる笑いを噛み殺せなかった。

「……私が謝らなかったら?」

智史は薄く笑う。施しみたいに、弱みを握るみたいに。

「大人しく認めて謝れば、この件は追及しない。来月、予定を空けてバリ島へ連れてってやる」

バリ島。薫子が五年も言い続けた場所。

これを出せば、いつもみたいに折れる――そう信じて疑わない顔。

薫子はその恩着せがましい表情を見た瞬間、疼いて麻痺していた心が、すっと冷えた。

可笑しくて、笑えてくる。

「藤原智史。どうして私が、まだあなたとバリ島に行きたいと思ってるの?」

薫子は冷え切った声で言い捨てる。

「その話、愛人と行くために取っておきな」

言い終えるより早く、薫子は手を上げた。

パァン――乾いた音が病室に弾ける。

智史の顔が横に弾け、固まった。信じられないという目で薫子を見返す。

ベッドの千尋は口元を押さえ、震えた。

「これは、さっき家で殴られた分」

薫子は痺れる手のひらを揉み、目は冷たいまま。

「藤原智史。あなた、本当に最低」

そう言い残し、薫子は迷いなく病室を出た。

智史はドアを睨みつけ、憎悪と不甘が渦を巻く。

沈村薫子は、いつからこんな女になった?

……

翌日。空は鈍く、雨の匂いがした。

薫子は車で会社へ向かった。先輩の海外支社へ行くまで残り19日。手元の中核プロジェクトを急いで引き継がなければならない。――清々しく、胸を張って去るために。

だがデザイン部のガラス扉の前でカードをかざすと、警告音が鳴った。

もう一度。……やはり「無効」。

受付へ向かおうとしたとき、アシスタントの佐藤が書類を抱えて通りかかり、薫子を見るなり顔をこわばらせた。

「沈村様……」

「カード、どうしたの?」

薫子が先に尋ねると、佐藤は気まずそうに頭を掻いた。

「……今朝、藤原様に権限を止められました」

胸がひやりとする。それでも薫子は平然を装う。

「理由は?」

「それは……」

佐藤は唇を噛み、言えないまま自分のカードで解錠した。

「……中を見たほうが早いです」

薫子は沈んだ顔でデザイン部へ入った。

これまで恭しくしていた同僚たちが、今はこそこそと見物するような視線を送ってくる。

薫子はまっすぐ自分のオフィスへ向かい、扉を開けた瞬間、足が止まった。

室内で、坂原千尋が薫子の椅子にふんぞり返って座り、ゆったりコーヒーを飲んでいる。

そして藤原智史は窓際で、片手をポケットに入れて電話中だった。

扉の音に気づき、智史が振り返る。冷たく一瞥。

「……じゃあ、そういうことで。切る」

電話を切ると、薫子を見下ろした。

「何してるの?」

薫子の声には抑えきれない怒りが滲む。

千尋はカップを置いて立ち上がり、怯えたふりで口を開いた。

「兄嫁、誤解しないで。智史さんが私を――」

「俺が呼んだ」

智史が遮る。

机へ歩み寄り、薫子の前に立つ。目には報復の愉悦。

「今日から、お前が持っているデザインプロジェクトは全部、未完成も契約前も含めて、千尋に移管だ」

薫子はまるで愚か者を見るように言った。

「移管? 何の権利で?」

智史は鼻で笑う。

「昨夜の件で、千尋は深い精神的ショックを受けた。お前が謝らないなら、これらの案件は精神的賠償だ。お前はどうせ仕事どころじゃないだろ。早く家へ帰って休め」

――彼女が何度も徹夜し、一線一線引いた心血を。

そんな軽さで、愛人の「賠償」にして差し出すのか。

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