第5章
彼女は怒りきって、逆に笑った。
……もういい。どうせ出ていく。
この泥舟、好きなやつが好きに拾えばいい。
国内のサプライチェーンなんて、先輩が海外で握っている資源に比べたら、塵みたいなものだ。
「好きにすれば」
沈村薫子はまぶたひとつ動かさず、まっすぐデスクへ向かった。坂原千尋の存在など、最初から目に入っていないみたいに。
身をかがめ、電源コードを抜く。机上の銀色の私物ノートパソコンを閉じ、そのままバッグへしまった。
大学3年の頃、アルバイトを3つ掛け持ちして、やっと買ったものだ。
中に入っているのは、ここ数年のデザイン原案だけじゃない。
個人的な発想メモ。走り書きのスケッチ。描きかけの手稿。
彼女の服飾デザイン人生、その全部だった。
それを見た坂原千尋が、すぐさま手を伸ばしてノートパソコンを押さえる。
「お義姉さん、智史さんが言ってましたよね? ここの物は全部、私に引き継ぐって。何してるんですかぁ? 会社の資産を勝手に持ち出したら困りますぅ」
沈村薫子の冷え切った視線に射抜かれ、坂原千尋はびくりと手を引きかける。
「坂原千尋。勘違いしないで。これは私物よ。会社の資産じゃない。汚い手、どけて」
「でもぉ……」
坂原千尋は今にも泣きそうな顔で、藤原智史を見上げた。
「智史さん。この中の図面って、会社案件の重要機密ですよね? もしお義姉さんが、他社に売ったりしたらどうするんですか?」
藤原智史の眉がぴくりと寄る。
次の瞬間には一歩踏み出し、ノートパソコンの反対側を乱暴につかんでいた。
「置け」
声は氷みたいに冷たい。
「そのパソコンは持っていけない」
沈村薫子は顔を上げた。
目の縁は赤い。視線の先にいるのは、かつて一生守ると誓った男。
「藤原智史。これは私のパソコンよ。私の全部が入ってるの。案件は好きにすればいい。でも、これだけは絶対に持っていく」
「置けと言った」
藤原智史は説明など聞く気もなく、指先に力を込めた。
デスクを挟んで、激しい引っ張り合いになる。
その横で坂原千尋は、勝ち誇ったように口元をつり上げた。
「お義姉さん、やめてくださいよぉ。ほら、手を離して――」
助けるふりをして手を伸ばし、その瞬間。
わざと強く、下へ押し込む。
同時に、藤原智史が力任せに引き戻した。
沈村薫子の手が、不意に滑る。
3つの力が一気に崩れた。
次の瞬間、ノートパソコンは床へ叩きつけられた。
――どんっ。
鈍く重い音。
銀色の筐体が硬い大理石へ激突し、耳障りな破砕音が弾ける。
画面は一瞬で蜘蛛の巣みたいにひび割れ、内部の部品がぱきぱきと飛び散った。ひとつは机の脚に当たり、そのまま隅へ滑っていく。
半開きのガラス扉の外で聞き耳を立てていた社員たちが、息を呑んだ気配がした。
「きゃっ……!」
坂原千尋は口元を押さえ、わざとらしく2歩ほどあとずさる。たちまち目に涙をにじませた。
「お義姉さん、ごめんなさい、ごめんなさい! ほんとにわざとじゃないんですぅ! 会社の機密を持ち出されたら大変だと思って、ちゃんと支えようとしただけで……こんなことになるなんて……」
震えるふりをしながら、藤原智史の袖をそっと引く。
沈村薫子はそんな安っぽい芝居など見ていなかった。
ただ、藤原智史を見ていた。
もともと澄んでいたその瞳に、今は言葉にできない痛みと絶望が渦を巻いている。
あのパソコンに入っていたのは、ただのデータじゃない。
彼女の青春。眠れなかった夜。目を真っ赤にしながら積み上げた線の一本一本。
魂そのものだった。
なのに藤原智史は、床に散った残骸を見下ろしても、罪悪感ひとつ浮かべない。
むしろ、心底うんざりしたように眉をひそめた。
坂原千尋を背にかばいながら、目を赤くした沈村薫子を見下ろす。
「いい加減にしろ。そんな、人でも死んだみたいな顔をして何になる」
吐き捨てる声音には、軽蔑と施しが混じっていた。
「たかがノートパソコン1台だろ。中に何が入ってるっていうんだ。壊れたなら壊れたでいい。最新型を10台でも買ってやる」
鼻で笑い、当然のように続ける。
「だいたい、藤原家の妻が外で働く必要なんか最初からない」
「家でおとなしく藤原の奥様をやってろ。月に何十万も小遣いを渡してるのに、それじゃ足りないのか? 会社で余計なことばかりするから、周りまで落ち着かなくなるんだ」
その言葉を聞いた瞬間、沈村薫子の胸の奥から、じわりと悲しみがせり上がった。
5年前。
藤原智史は家業を継いだばかりで、足元はまだ脆く、四方は敵だらけだった。
あの時、パリへ行く夢を捨てたのは彼女だ。
自分のチームを率い、昼も夜もなく図面を引き続けたのも。
業界を驚かせるヒット作を次々と出し、会社の資金繰りを立て直したのも。
全部、自分だった。
あの頃の彼は、彼女を抱きしめ、目を潤ませて言った。
「薫子、お前の才能は金で測れない。誓うよ。いつか絶対、お前だけのファッション帝国を作る」
それが今はどうだ。
成功した途端、彼女の才能は「余計なこと」になった。
沈村薫子は俯き、無残に砕けたノートパソコンを見つめた。
そして、ふっと小さく笑う。
藤原智史は知らない。
この私物パソコンの中には、彼女の手稿だけじゃなく、会社が来月入札にかける3つの大型案件、その完成図面がまるごと入っている。
数日前から社内ネットワークの更新作業が続いていて、進行を急ぐため、ローカルのハードディスクへ一時保存していたのだ。
クラウドへのバックアップは、まだ済んでいない。
つまり今、これがそのまま、会社の下半期を支える命綱だった。
以前の自分なら、ここで正気を失っていたはずだ。
でも今は違う。
……勝手にしろ。
人の心血をゴミみたいに扱うなら、自分でその後始末をすればいい。
沈村薫子は2人を見たあと、机の上のペンを手に取った。
さらさらと数行、迷いなく書きつける。
そして、その紙をデスクに叩きつけた。
「弁償なんていらない」
声は、不気味なほど静かだった。
「藤原智史。そんなに私のものを人にくれてやるのが好きなら、この案件も、この部長の席も、全部あげる。……その女に」
藤原智史の目が沈む。
A4用紙の上には、はっきりと「辞表」の文字。
それを見た瞬間、胸の奥を何かがざわついた。
「沈村薫子、また癇癪か? 辞職すると言って俺を脅すつもりか」
沈村薫子は冷たく笑った。
「さっき、自分で言ったでしょ。藤原の奥様は外で働かなくていいって。もう忘れたの?」
その言葉に、藤原智史の顔色が青白く入れ替わる。
沈村薫子はそれ以上ひと言も返さず、くるりと背を向けた。
坂原千尋はその背中を見つめ、目の奥に狂喜を走らせる。
口元の笑みが、もう隠しきれていない。
勝った。
やっと、あの高いところにいた正妻を追い出した。
今日から、この豪奢な個室も。
自分を業界で有名にしてくれる案件も。
全部、自分のものだ。
彼女はわざと甘えるように藤原智史へ寄り添い、しなだれかかるような声で囁く。
「智史さん、お義姉さんってほんと気が強いですねぇ。もしかして、前から智史さんのこと捨てたかったんじゃないですかぁ?」
その言葉が終わるより先に。
半開きだったデザイン部のガラス扉が、ばんっと乱暴に蹴り開けられた。
「捨てるのはあんたのほうでしょ、このクソ女!」
鋭い怒鳴り声と一緒に、シャネルのスーツを着た若い女が殺気立って飛び込んでくる。
藤原智史の実妹、藤原祥子だった。
本来なら今日は、沈村薫子に仕立ててもらったドレスを受け取りに来ただけだった。
なのにエレベーターを降りた途端、社員たちのひそひそ話が耳に入った。
社長が愛人のために、社長奥様の入室権限を止めた。
案件も全部取り上げた。
そう聞いた瞬間、怒りで頭が真っ白になった。
「祥子?」
藤原智史が眉をひそめる。
けれど藤原祥子は、兄など眼中にない。
べったり張りついている坂原千尋を見た瞬間、目を吊り上げた。
「やっぱりね! お義姉さんが出ていくわけだわ。あんたみたいな恥知らずの泥棒猫が会社でのさばってたんだから!」
藤原祥子は昔から気が短い。
それに、沈村薫子とはずっと仲がよかった。
坂原千尋のことも、前から虫酸が走るほど嫌っていた。
次の瞬間には、迷いなく間合いを詰める。
「な、何するんですか――きゃっ!」
坂原千尋が反応するより早く、藤原祥子はその髪を鷲づかみにした。
「何するって? 私が今日は直々に教えてあげるのよ」
ぐいっと引き寄せ、容赦なく吐き捨てる。
「愛人の末路ってやつをね」
