第2章
小笠原玲奈が帰国したその夜は、折あしく恩師の五十歳の誕生パーティーが開かれる日だった。
実家が破産したとかで、彼女はあちこちで金を無心しているらしい。
緒方智也に手を引かれて会場に入ったとき、一人の成金が小笠原玲奈に酒を強要している光景が目に飛び込んできた。
一杯飲めば、十万円貸してやる。
小笠原玲奈はむせ返って涙を流しながらも、無理やり笑顔を作り、一杯また一杯とグラスを空けていく。
緒方智也の姿に気づくと、彼女は激しく動揺した。惨めな姿を見られたくないのか、慌てて顔を伏せる。
誰かが冷やかしの声を上げた。
「おい玲奈、金がないなら緒方に頼めばいいだろ」
「昔のよしみだ、一晩付き合ってやれば、あいつなら悪いようにはしねえよ」
緒方智也は冷ややかな視線を走らせ、淡々と言い放った。
「反吐が出るようなことを言うな」
彼は煙草をくわえ、私の腰を抱き寄せると続けた。
「俺の妻を不機嫌にさせる奴は、今すぐここから出て行け」
周囲の人間は笑いながら私を「奥さん」と持ち上げ、緒方智也にこれほど愛されていて羨ましいと口々に言った。
だが、誰も知らない。もし小笠原玲奈が突然現れたりしなければ、緒方智也がこのパーティーに来ることなど決してなかったということを。
小笠原玲奈は私をじっと見つめ、唇を噛みしめて涙をこらえている。
あの成金が彼女の肩に手を回し、なれなれしく撫で回す。
男は下卑た笑みを浮かべて言った。
「どうやら緒方智也は、本気でお前を捨てたらしいな」
「だが構わん。奴がいらなくとも、俺がもらってやる」
「大人しく言うことを聞いて、俺を気持ちよくさせてくれりゃあ、金のことなら心配ない。どうだ?」
緒方智也は手の中の煙草を押し潰し、その表情は一瞬にして陰惨なものへと変わった。
彼はやはり、彼女を捨て置けないのだ。
小笠原玲奈はあふれそうになる涙を必死にこらえ、顔を上げて緒方智也を見つめる。
彼女は震える声で絞り出した。
「……嫌」
「私が愛するのは、一生に一人だけ。たとえその人が私をいらないと言っても、他の人には指一本触れさせないわ」
私の腰を抱く緒方智也の腕が不意に強まり、私は痛みに眉をひそめた。
拒絶された成金は逆上し、冷ややかな笑みを浮かべて彼女の空威張りを罵倒した。
「何様のつもりだ、聖女気取りか? クソが、調子に乗るんじゃねえ。今日は絶対にお前を抱いてやるからな」
男は小笠原玲奈の腕を掴むと、強引に出口へと引きずっていく。泥酔した彼女の体は力なく男の胸にもたれかかり、その抵抗はいかにも形ばかりのものだった。
緒方智也の視線は、片時も小笠原玲奈から離れない。
私には分かる。彼は今、あの男を殺してやりたいと思っているはずだ。
小笠原玲奈がいよいよ外へ連れ出されそうになったその時、ついに緒方智也の堪忍袋の緒が切れた。
彼は猛然と駆け出すと、男を思い切り蹴り飛ばして床に這わせた。
そのまま馬乗りになり、容赦なく拳を振り下ろす。
その目は血走り、食いしばった歯の間から怒号がほとばしる。
「二度とあの女に触れてみろ、ぶっ殺すぞ!」
会場は瞬く間に騒然となった。
スマートフォンを掲げて動画を撮り始める者もいる。私は慌てて緒方智也の袖を掴み、彼を止めようとした。
彼は振り返り、氷のような視線を私に突き刺した。
「お前に関係ないだろ」
私は言葉を失い、ゆっくりと指の力を緩める。
小笠原玲奈が彼にすがりつき、涙ながらに訴える。
「智也、私のために喧嘩なんてしないで。あなたが怪我でもしたら、私、生きていけない……」
「さっき、すごく怖かった……本当にあなたが私を捨てたんじゃないかって……」
緒方智也は、彼女を突き放さなかった。
震える彼女を強く抱き寄せ、まるで壊れ物を扱うかのように慈しむ。
そして衆人環視の中、彼は小笠原玲奈を連れて会場を後にした。
私一人を、その場に残して。
