第2章 壊れた名前だけ

ホテルのスイートルーム、大理石のバスルームには、椎名美月が浴びたシャワーの湯気がまだかすかに残っていた。濡れた金色の髪を肩に流し、ホテル備え付けのシルクのローブをまとって彼女は姿を現した。ナイトスタンドには赤ワインのグラスが置かれている。

椎名美月はバルコニーへと歩み寄った。冷たい大理石の床を、素足が音もなく進む。眼下にはB市の夜景が広がり、港の暗い水面が街の灯りを映し出していた。

彼女はワイングラスを手すりに置き、ゆっくりと指からエメラルドの指輪を外した。月光がその石を捉え、手のひらに緑色の影を落とす。それは先ほど、清水悠馬の充血した目に認識の色がよぎったとき、彼の顔の上で踊ったのと同じ影だった。

『もう少しで思い出すところだったでしょう、清水悠馬?』

突風がバルコニーを吹き抜け、予期せぬものを運んできた。階下のホテルの庭から漂う、ジャスミンの繊細な香り。

その香り。五年前とまったく同じだった。

記憶が津波のように押し寄せ、彼女をあの絶望的な午後へと引き戻す。彼女の世界が粉々に砕け散った、あの日の午後に。

椎名美月は目を閉じ、記憶に身を委ねた。浅倉早苗が死んだ、あの日に。


午後の陽光が、床から天井まである大きな窓から差し込んでいた。クリスタルのシャンデリアがシャンパンカラーの壁に繊細な模様を投げかけ、店内にはフランス製香水の甘い香りと、シルクが擦れるかすかな音が満ちていた。

二十三歳の浅倉早苗は三面鏡の前に立ち、アイボリーのシルクとチュールに身を包まれていた。ウェディングドレスは彼女にぴったりだった。幸福に頬を染め、鏡に映る自分に微笑みかけずにはいられない。

「浅倉さん、このドレスは本当に素敵ですわ」

デザイナーはそう言って、浅倉早苗の肩にかかった繊細なレースを整えた。

「清水さんがバージンロードを歩くあなたを見たら、きっと言葉を失いますよ」

「ありがとうございます」

浅倉早苗はささやき、複雑なビーズ細工に指を滑らせた。

「ここのレースのディテールが大好きです。とても綺麗……」

『明日には、私は清水夫人になるんだわ』

胸を高鳴らせながら、彼女は未来を想像した。

『悠馬さんは、私の純粋で優しいところが好きだって言ってくれる。約束通り、完璧な結婚式を挙げて、それからハネムーンでイタリアへ飛ぶの』

浅倉早苗は鏡の前でくるりと回り、ドレスのトレーンが優雅に床を滑るのを見つめた。窓から差し込む午後の陽光が、彼女を輝かせている。祭壇に近づく自分を見つめる清水悠馬の目に、愛が輝いているのを想像した。

「ウエストラインをもうほんの少しだけ詰めましょう」

デザイナーはピンを手に、浅倉早苗の周りを回りながら言った。

「明日のレッドカーペットを歩くとき、最高に完璧に見えるようにしたいんです」

「それじゃお願いします」

浅倉早苗は笑った。

「奈津が、私が緊張しすぎてつまずいて派手に転ぶんじゃないかって心配してたんです」

「ご心配なく、お嬢さん。明日はB市中の誰もが、あなたの美しさに息を呑んで見とれますわ。清水さんは本当に幸運な方ね」

浅倉早苗はもう一度くるりと回ると、ドレスのスカートがふわりと広がった。父親に腕を引かれ、バージンロードを進む自分の姿が目に浮かぶ。その先では、清水悠馬が、彼女の膝を震わせるあの温かい笑顔で待っているはずだ。

しかしその時、隣のVIP用フィッティングルームから声が聞こえてきた。珍しいことではない。ブティックには複数の客がいるのが常だった。だが、ある笑い声が聞こえた瞬間、浅倉早苗の心臓は跳ねた。

『悠馬?』

彼女は鏡の前で凍りついた。清水悠馬は今日の午後ずっと商談のはずだった。彼が花野ブライダルで何をしているというのだろう?

「このドレス、君にすごく似合ってる」

薄い壁の向こうから、清水悠馬の声が聞こえてきた。

「明日、これを着て結婚式に来たら、君が会場で一番美しい女性になるだろうな」

甘い蜜のような女性の声が返した。

「花嫁よりも綺麗だって?」

「当たり前だろ。君はいつだって、あいつより綺麗だよ」

浅倉早苗の血が氷水に変わった。この女は誰? なぜ悠馬は、自分の花嫁よりも彼女の方が綺麗だなんて言うの?

「悠馬、本当に明日、彼女と結婚するつもり?」

「日織、これはただのビジネスだって知ってるだろ」

日織。その名が、浅倉早苗の胸に深く突き刺さった。森本日織。チャリティーイベントでいつも清水悠馬の周りをうろつき、彼の言葉一つ一つにうっとりと聞き入っている、あの女。

浅倉早苗の足は、突然力が抜けたように弱々しくなった。彼女は慎重にフィッティングルーム間の連絡ドアに近づいた。心臓が肋骨を激しく打ちつけている。

ドアの隙間から、隣の部屋を覗き見ることができた。

そこに広がっていた光景は、彼女が愛について信じてきたすべてを破壊した。

清水悠馬と森本日織が互いの腕の中に絡み合い、絶望的な情熱でキスを交わしていた。森本日織は体の曲線にぴったりと張り付く血のように赤いイブニングドレスをまとい、清水悠馬の手は彼女のブロンドの髪に絡みついていた。

「彼女、本当にあなたが愛してるって信じてるのか?」

森本日織がキスの合間に尋ねた。

「もちろん信じてるさ」

清水悠馬は冷酷で冷たい響きで笑った。

「浅倉早苗は驚くほど世間知らずだからな。ロマンチックな戯言をいくつか並べれば、すぐに涙ぐんで感謝してくれる」

「可哀想な」

森本日織は喉を鳴らした。

「まだ自分がおとぎ話の結末を見つけたとでも思ってるのかしら」

「浅倉早苗との結婚は純粋にビジネスだ」

清水悠馬は、まるで天気の話でもするかのように淡々とした声で言った。

「彼女の家族は、その名前以外は破産同然だ。だが、その名前こそが、俺がB市の旧家の連中に入り込むために必要なものなんだ」

一言一言が、浅倉早苗の胸を抉るナイフとなった。彼女はドアフレームをあまりにも強く握りしめ、指の関節が白くなり、爪が木に食い込んだ。

「じゃあ、代わりに私と結婚すればいいじゃない」

森本日織は唇を尖らせた。

「私たち、もう三年も一緒なのよ」

「日織、大局を見なきゃだめだ。君と結婚したって、俺のビジネスの助けにはならない。だが浅倉早苗と結婚すれば、浅倉家信託基金を支配下に置き、B市のエリート社交界へのアクセス権も手に入る」

「で、結婚式の後は?」

清水悠馬は森本日織の顔を優しく撫でた。

「結婚式の後も、こうして続けられるさ。浅倉早苗は現実世界のことなんて何も知らない。優しくしてやりさえすれば、彼女は完璧におままごとを楽しんでくれるだろう」

彼は森本日織をさらに引き寄せ、声を親密なささやきに落とした。

「お前がいつだって、俺の本当の女だ」

世界が傾いた。浅倉早苗は膝が崩れるのを感じたが、壁だけが彼女を支えていた。空気のように軽く感じられた美しいウェディングドレスが、突然千キロもの重さで彼女の肺を押しつぶすかのようだった。

鏡に向き直ると、見知らぬ女がこちらを見つめていた。死人のように青ざめ、絶望に虚ろな目をした女。輝くばかりの花嫁は消え去り、そこには亡霊が立っていた。

その瞬間、デザイナーが戻ってきて、最終調整についてぺちゃくちゃと喋り始めたが、浅倉早苗はすでにドレスのジッパーに爪を立てていた。

「これを脱がなきゃ。今すぐ」

「でも、まだお直しが……」

「今すぐ!」

浅倉早苗は、声がひび割れるのも構わずに叫んだ。

「今すぐこれを脱がせて!」

彼女の手はあまりに激しく震え、ジッパーをうまく下ろすことができなかった。涙が顔を流れ落ち、丁寧にしたはずの化粧を台無しにしていく。

三年間続いた「愛してる」という言葉、永遠を誓う無数の約束、そのすべてが計算された嘘だったと暴かれたのだ。

結婚はビジネス上の取引に過ぎなかった。売買される名前でしかなかった。

普段着に着替えた後、浅倉早苗はまるで火事から逃げるようにフィッティングルームから飛び出した。出口に向かってよろめく彼女の背後で、デザイナーの抗議の声が遠ざかっていく。

外ではパパラッチが待ち構え、カメラのフラッシュを浴びせてきた。

「浅倉さん! 明日の大一番を前に、今のお気持ちは?」

しかし、浅倉早苗は呆然と彼らの横を通り過ぎた。彼らの質問はほとんど耳に入っていなかった。震える手でタクシーを拾い、自分のものではないような声で運転手に住所を告げた。

家までのタクシーでの道のりは、ぼんやりとしていた。実家である屋敷に着く頃には、太陽が沈みかけ、空を血の色に染めていた。

如月志保が玄関ホールで待っており、その顔には心配の色が浮かんでいた。

「浅倉様? ウェディングドレスはいかがでしたか?」

浅倉早苗は答えることができなかった。彼女は階段を駆け上がり、自分の部屋に鍵をかけて閉じこもった。まるで清水悠馬がドアを突き破って入ってくるかのように、背中をドアに押し付けた。

数時間後、如月志保の声が木のドア越しに聞こえてきた。

「水野奈津様からお電話です。浅倉様のことを心配なさっています」

「大丈夫だと伝えて」

浅倉早苗はなんとかそう言った。

しかし、彼女は大丈夫ではなかった。死にかけていた。

夜が更け、彼女は寝室のバルコニーに立ち、眼下に広がる庭の結婚式の準備をじっと見つめていた。白い花のアーチ、ピンクのリボン、そして祭壇。そこで彼女は、自分をビジネスの資産としか見ていない男に愛を誓うはずだった。

数時間前、彼女は自分の未来を計画していた。今や、それらの装飾は美しく飾られた墓のように見えた。

前のチャプター
次のチャプター