第1章

百合子視点

天音閣は目映い光に満ち、むせ返るような高級香水の香りが立ち込めていた。私はステージの中央に立ち、スポットライトを浴びたヴァイオリンが妖しい輝きを放っている。二千八百の客席は、熱気を帯びた視線で埋め尽くされていた。

弦の上を指が踊り、旋律が液体水銀のように流れ出す。けれど、この音を奏でているのが本当の私ではないことだけは、はっきりと分かっていた。

本当の私は、この身体の奥深く……意識という名の暗い地下室に閉じ込められている。小さな窓から、ぼんやりと外の世界を覗き見ることしか許されない囚人。十年。この十年もの間、私は己の肉体という牢獄に繋がれていたのだ。

二百年前に死んだオーストリアの女、イリス。そいつが私の身体を乗っ取り、己の夢を叶えている。私を世界的なヴァイオリニストに仕立て上げ、そして、客席にいるあの男と『恋に落ちさせた』。

ああ、忌々しい。この熱狂する観客たちが真実を知ったら、一体どんな顔をするだろう。

最後の一音がホールに溶けて消えると、嵐のような拍手が巻き起こった。

最前列から、高峰恭平が立ち上がる。完璧に仕立てられた黒のタキシードに身を包み、寸分の乱れもなく撫でつけられた髪。その手には、十億円は下らないというピンクダイヤモンドの指輪を収めた、ベルベットの小箱が握られていた。

彼はステージの縁まで歩み寄ると、恭しく片膝をついた。

「百合子、僕の女神!」

マイクを通した声が、ホール全体に朗々と響き渡る。

「この十年、君は僕の全てだった。どうか、僕と結婚してください!」

観客が息を飲む。無数のカメラのシャッター音が、まるで機関銃の掃射のように鳴り響いた。

けれど、私の内側では激しい吐き気が込み上げていた。本気で、その場にすべてをぶちまけてしまいそうだった。

笑わせるな。この男が、十年も私を愛していただと? 十年前、あいつは私をただの賭けの駒としか見ていなかった。山奥から出てきた貧しい娘。永都芸術学院に通っていた、金持ちの坊ちゃんたちの格好の玩具だったのだ。

自分の唇が、優美な弧を描くのを感じる。またイリスが、私の表情を操っている!

『やめて! こいつのプロポーズを受けるな! あんたを愛してるわけがない!』

私は意識の檻の中で絶叫した。脳内に、イリスの嘲るような声が響く。

『黙りなさい、小娘。恭平は完璧な夫よ。富と権力を持ち、そして何より――この私に心酔している』

『あいつが惚れているのは、この身体だけだ! あんたじゃない、この亡霊が!』

必死にもがくが、イリスの支配は鉄のように固い。

『同じことよ。この身体は、もう私のものなのだから』

自分の手が、ゆっくりとダイヤモンドの指輪へと伸びていくのが見えた。駄目だ、やめろ! 颯馬を裏切るような真似はさせない!

「恭平さん、私……」

イリスが「はい、喜んで」と答えようとしている。

『やめろ! この亡霊が! 私の身体から出ていけ! 私には、愛する人がいるんだ!』

私は精神の牢獄に、ありったけの力で体当たりした。

『あの颯馬とかいう男のこと?』イリスが甲高い声で笑う。『哀れなものね。十年も経てば、とうにあなたのことなど忘れているわ。もしかしたら、もうこの世にいないかもしれない』

『違う!』

ナイフで抉られるような痛みが、心臓を貫いた。

『颯馬が私を忘れるはずがない! 彼は、きっと待っていてくれる!』

絶望が私を飲み込もうとした、まさにその時だった。どこからか、温かく、そして力強い不思議な力が、私の意識の底へと流れ込んできたのは。

その力は優しく、だが抗いがたく私の精神に広がり、かつてない勇気を奮い立たせてくれた。

『な……ありえない……』

初めて、イリスの声に焦りの色が混じった。

『誰が私の支配に干渉しているの?』

誰かは分からない。けれど、これが最後の好機であることだけは確信できた。

私は歯を食いしばり、この謎の力を借りてイリスの精神支配に激しくぶつかった。十年分の怒りと、痛みと、絶望の全てをぶつけるように――!

『お前は私の人生をめちゃくちゃにした!』私は魂で咆哮した。『私の身体を奪い、愛する人を裏切る様を、ただ指をくわえて見ていることしかできなかった!』

イリスの精神を縛る鎖が震え、微かな亀裂が入る。

『いやあああ!』イリスが狂ったように叫ぶ。『この完璧な肉体を手に入れるために十年を費やしたのよ! 私は女王として生きる資格がある!』

『何一つ、あんたのものじゃない!』

謎の力が、無限に力を与えてくれる。私は攻撃の手を緩めなかった。

『これは私の身体! 私の人生よ!』

パキン、と。乾いた音が響いた気がした。

ついに、精神を縛り付けていた枷が砕け散ったのだ。

瞬間、身体の主導権が雪崩のように戻ってきた。縛られていた感覚が嘘のように消え失せ、指先から足の先まで、肌の隅々までの感覚が蘇る。十年ぶりに、私の意識は完全に澄み切っていた。

ひとつ瞬きをする。世界が、信じられないほど鮮やかに目に映った。色彩はより濃く、音はより澄んで聞こえる。

私は眼下で跪く恭平を見下ろした。その期待と得意げな光に満ちた顔に、胃の腑が煮えくり返る。

恭平はまだ、あの吐き気を催すような笑みを顔に貼り付けたまま、私の答えを待っている。観客は固唾を飲み、世界中のカメラが私たちに焦点を合わせていた。

私は手を伸ばした。恭平の眉がぴくりと跳ね、勝利を確信したように口元が耳まで裂けんばかりに歪む。

私は、差し出されたダイヤモンドの指輪を、ゆっくりと受け取った。

ホール全体が、墓場のように静まり返った。

そして、その十億円の『愛の証』を頭上高く掲げると、満場の観客が固唾を飲んで見守る中――大理石の床へと、力任せに叩きつけた。

ガシャァァン!

甲高い衝撃音が、水を打ったような静寂を引き裂いた。指輪が跳ね、巨大なダイヤモンドが歪んだ台座から外れて私の足元に転がる。私はハイヒールの踵で、歪んだプラチナのリングを執拗に踏みつけた。それが原型を留めないほど、ぐにゃりと捻じ曲がるまで。

死のような沈黙が、ホールを支配した。

「な、なんだ……百合子……」

恭平が、口をあんぐりと開けて呆然と呟く。

「黙れ!」私は彼の鼻先を指差して叫んだ。「十年前に永都芸術学院でした賭けを覚えている? 一週間で田舎娘をモノにする――賭け金は、あんたのクソみたいなマセラティだったわよね!」

ホールは静まり返り、自分の心臓が狂ったように高鳴る音だけが聞こえた。

「百合子、ダーリン、何を言って……」

恭平が狼狽しながら近づこうとする。

「気安く呼ばないで!」私は一歩後ずさった。「それから、高峰百合子と呼ぶな! 私は菊池百合子――あんたたちが面白半分で弄んだ、あの惨めな田舎娘よ!」

そして私は、この十年、ずっとやりたかったことを実行した。

バシンッ!

乾いた音がホールに響き渡り、恭平の身体がぐらりとよろめいた。彼の左頬はみるみるうちに腫れ上がり、真っ赤な手形がくっきりと浮かび上がっている。彼は己の頬を押さえ、衝撃に言葉を失っていた。

「ゲームは終わりよ、クズが」

脳裏で、イリスが断末魔の叫びを上げた。

『いやあああ! この女――』

そして、その声はぷつりと消えた。永遠に。

私は、自由になった。

ホールは、一瞬にして混沌の渦に叩き込まれた。報道陣が狂ったようにカメラを向け、観客は席から立ち上がり、スタッフがステージへと駆け寄ってくる。

逃げなければ。

「彼女を捕まえろ! 気でも狂ったんだ!」恭平が腫れた頬を押さえながら怒鳴った。「警備員! 何をしている、逃がすな!」

私は走り出した。ハイヒールがステージをけたたましく打ち鳴らし、心臓が喉から飛び出しそうだ。

三人の警備員がステージの左手から回り込み、私を取り囲もうとする。構わない。その中で一番線の細い男を目がけて、真っ直ぐに突進する。彼が私を掴もうと腕を伸ばした瞬間、私は渾身の力でその身体を突き飛ばした。男が体勢を崩した一瞬の隙を突き、その脇をすり抜ける。

ステージを飛び降り、楽屋裏へと駆ける。この忌々しいドレス! 動きを妨げるハイヒールを脱ぎ捨て、手に持って裸足のまま走り続ける。冷たい床が足の裏を刺したが、気にしてはいられなかった。

廊下の先で、大柄な警備員が仁王立ちになり、両腕を広げて私の行く手を阻んだ。私が怯んで足を止めるとでも思ったのだろう。その油断を突き、一気に加速して右へとフェイントをかける。彼の重心がずれた瞬間、逆の左へと切り返し、壁際をすり抜けた。

前方から、さらに増援が駆けつけてくる。とっさに近くの楽屋のドアを押し開けて中に飛び込み、間髪入れずに鍵をかけた。

ドアが外から激しく叩かれ、ノブがガチャガチャと音を立てる。部屋を見回し、窓を見つけた。三階……。かなりの高さだ。けれど、あの男に捕まるよりは、万倍マシだ。

化粧台に置いてあった仕事用のジャケットを掴み、派手すぎるイブニングドレスの上に羽織る。

化粧台によじ登り、窓をこじ開けた。十一月の永都の夜風が、刃物のように頬を切り裂いていく。眼下は、ゴミ箱や段ボールが散乱する薄暗い路地裏だった。

背後でドアを蹴り破る轟音が響き、蝶番が軋む音が聞こえる。もう、長くはもたない。

「くそっ……」

ごくりと唾を飲み込む。口の中に、恐怖の苦い味が広がった。

バンッ! 凄まじい音と共にドアが破られ、三人の警備員が雪崩れ込んできた。

「窓だ! 飛び降りさせるな!」

だが、一足遅い。私はすでに窓枠の上に立っていた。

「ごめん、颯馬。もし死んだら、今度こそ会いに行くから」

心の中で最愛の人の名を呟き、そして私は、夜の闇へと身を躍らせた。

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