第3章
百合子視点
黒塗りのメルセデスに滑り込む。颯馬は、車が走り出してからもずっと私の手を握りしめていた。まるで私が幻ではないかと確かめるように、親指で何度も肌の上をなぞっている。
車は上山区の高級高層マンションの前で静かに停まった。エレベーターの中、颯馬は私の後ろに立ち、その手は優しく私の肩に置かれた。ジャケット越しに伝わる彼の体温が、凍えた心を少しずつ溶かしていく。
五十階のドアが開いた時、私は洗練されたリビングルームに足を踏み入れ、そして息を飲んだ。壁一面が、無数の写真で埋め尽くされていたのだ。そのすべてが、私の写真だった。
「颯馬……」
声が、微かに震えた。
「この何年もの間、ずっと君の活躍を追いかけてきたんだ」
彼は私の隣に立ち、そっと腕を腰に回した。
「すべてのコンサート、すべての公式な場に」
涙で視界が滲む。この人は、十年もの間、ずっと静かに私を見守り続けてくれていたのだ。
「シャワーを浴びて、綺麗な服に着替えるといい」彼の手が、労るように私の肩をさする。「家のクローゼットには、ずっと君の服が用意してある」
案内されたウォークインクローゼットは、まるでブティックのようだった。壁一面に、女性ものの服がずらりと並んでいる。彼は私のために、ワードローブ一式を準備してくれていたのだ。
清潔なパジャマを手に取り、バスルームへ向かう。しかし、服を脱ぎ始めた時、鏡に映った自分の姿に、私は完全に打ちのめされた。
首筋に、胸元に――無数の鬱血痕。いくつかは黄色く変色しており、何週間も前からそこにあるのは明らかだった。
イリス……! あの女が! 私の身体を使って、恭平と……!
「やめて! やめて! やめて!」
私は必死にその痕を爪で掻きむしり、肌から削ぎ落とそうとした。
「消えろ! こんな汚らわしいもの、全部!」
吐き気と怒りが、熱い溶岩のように込み上げてくる。火傷しそうなほどの熱湯を浴び、爪が肌に食い込むほどタオルでゴシゴシと擦った。
「どうして……どうしてこんなことに……」
私はバスルームの床に崩れ落ち、ヒステリックに泣きじゃくった。
「何も覚えてない……分からない……」
「ゆこ?」
ドアの向こうから、颯馬の心配そうな声がした。
「中で大丈夫か?」
「入ってこないで!」私は涙声で叫んだ。「こんな私を見ないで……! 私がどれだけ汚いか、見ないで……」
しかし、颯馬は構わずドアを押し開けた。私の身体を覆う無数の痕を見た時、そして絶望して床にうずくまる私を見た時、彼の顔は静かな殺意に染まった。
「あの野郎……」彼は歯を食いしばった。「殺してやる」
「見ないで!」
私は腕で必死に身体を隠そうとした。全身が、止めどなく震える。
「こんなの望んでない! 何も覚えてないの!」
颯馬は駆け寄って私の隣に膝をつくと、優しく、しかし力強く私を腕の中に引き寄せた。
「これは君のせいじゃない」
彼の声は震えていた。その大きな手が、私の髪を何度も撫でる。
「何一つ、君のせいじゃないんだ、ゆこ」
「でも、これは私の身体……」私は彼の胸に顔をうずめて嗚咽した。「あいつが、私の身体を使ってあんなことを……汚い、気持ち悪い……」
「俺の言うことを聞け。俺を見て」
彼は私の顔を両手で包み込み、親指で涙を拭った。
「これは本当の君じゃない。本当の君は、清らかで、美しい」
彼は私の額に、そして涙で濡れた瞼に、そっと唇を寄せた。
「あの野郎が触れたのは、魂のない抜け殻だ。君の魂じゃない。君の魂は、ずっと綺麗なままだったんだ」
「颯馬……」
私はぼやけた視界で彼を見つめた。
「必ず、高峰恭平に償わせてやる」
彼の目は氷のように冷たかったが、その手つきはどこまでも優しいままだった。
「この十年間の一秒一秒、その代償を払わせる」
彼の手は私の背中をなだめるように、ゆっくりと円を描いた。
「でも今は、君が戻ってきたことだけを分かっていればいい。俺の元に、戻ってきたんだ」
「私に幻滅したと思ってた……」
私は、かろうじて声を絞り出した。
「そんなことはない!」彼の声は、獰猛な響きを帯びていた。私の頬にキスをしながら、力強く言う。「君は俺のゆこだ。俺の、清らかで美しいゆこ。こんな痕で、俺の君への想いが変わるもんか」
彼は私の額や頬に、羽のように軽く、けれど愛に満ちた重みのあるキスを繰り返し落とした。
「愛してる。君の魂を、心を、そのすべてを愛してる」
「私のそばから離れないで」
私は必死に彼のシャツを掴んだ。
「安心して、絶対に離れないから」彼は優しく私を撫で続けた。「君が戻ってくるのを十年も待ったんだ。今こうして君がいるのに、どうして離れられる?」
彼の声は春風のように柔らかく、その温もりが私の震える身体をゆっくりと落ち着かせていく。
「俺が君を守る。すべてを、元通りにしてやる」
次第に、彼の優しい手つきと柔らかなキスの中で、私の感情は凪いでいった。疲労が、重い波のように押し寄せる。十年間の拷問、今夜の脱出、そして衝撃的な再会……。まぶたが、鉛のように重くなっていく。
「おやすみ、ゆこ」彼は私を強く抱きしめ、子守唄のように優しい声で言った。「何があっても、君はずっと俺のゆこだ。俺はここにいる。ずっと君を守っている」
彼の温かい腕の中、優しい愛撫を受けながら、私はついに安らかに目を閉じた。
十年ぶりに、心から安全だと感じていた。私の騎士様が、帰ってきたのだ。もう二度と、一人になることはない。
◇
颯馬の温かい腕の中で、私は深い眠りに落ちていった。しかし、意識の奥底で、封じられていた記憶が壊れたダムのように溢れ出してきた。
夢は、古いフィルムがゆっくりと回るような、温かい黄金色から始まった。
私は十六歳に戻っていた。奥山之里の山荘の外にある、見慣れた木製の柵のそばに立っている。夕日が溶けた蜂蜜のように遠くの山々に注ぎ、空気は野バラとミントの香りで満ちていた。すべてがあまりにリアルで、頬を撫でる夜風の感触さえあった。
あの頃は、すべてが完璧だった。
「ゆこ、何か弾いてくれよ」まだ少年の面影を残す颯馬が柵に腰掛け、夕日の中で宝石のように輝く瞳で言った。「『アヴェ・マリア』はどうだ?」
私は愛用の、しかし使い古されたヴァイオリンを構えた。弓が弦に触れた瞬間、美しいメロディーが谷間に響き渡る。畑から聞こえる父の呼び声と、台所で夕食の準備をする母の音が混じり合う。それらの音が織りなすハーモニーこそが、私の記憶の中で最も美しい交響曲だった。
「ゆこ、君の音楽は、この山で一番綺麗な鳥のさえずりよりも素敵だ」颯馬は柵から飛び降りて近づき、その手で私の頬を撫でた。「いつか、世界中がこの美しい音楽を聴くことになる」
「でも、ここを離れたくない。あなたと離れたくない」
夢の中の私は、名残惜しそうに言った。
「夢を追いかけなきゃ」彼の眼差しは決意に満ち、そして愛情深かった。「そして俺は、裕福な時も貧しい時も、永遠に君の騎士でいる。ゆこ、これは君への約束だ」
その夜、古い樫の木の下で、私たちは思い出と誓いを詰め込んだタイムカプセルを埋めた。月明かりが、私たちのまだ幼い顔を照らし出す。すべてが無垢で、完璧だった。
もし、あの瞬間に永遠にとどまっていられたら……。
◇
夢の温かさは、唐突に消え去った。永都市の冬の、骨身に染みるような灰色と白に取って代わられる。
十六歳の私が、みすぼらしいスーツケースを引きずり、永都芸術学院の威圧的な門の前に臆病に立っているのが見えた。降り注ぐ陽光とは裏腹に、その建物は私には冷たい牢獄のように思えた。
どうして、こんな場所が天国だなんて思えたのだろう。
ルームメイトの絵美里が初めて私を見た時の、あの侮蔑に満ちた顔は決して忘れられない。シャネルのスーツに身を包んだ彼女は、まるで汚物でも見るかのように私を値踏みした。
「あんたが、あの特別招待生の田舎者?」彼女はせせら笑った。「へぇ……ずいぶんと個性的じゃない」
その後の数週間は、屈辱の連続だった。中でも最悪だったのは、あのバスルームでの暴行だ。金持ちの娘たちが、飢えた狼のようにトイレで私を追い詰めた。
「田舎のゴミ!」
彼女たちは悪意を込めて吐き捨てた。
「永都芸術学院に入ったくらいで、お姫様になったつもり? 夢でも見てなさい!」
冷たいタイルが頬に押し付けられ、便器の水が屈辱の涙と混じり合う。あの絶望と無力感に、私は窒息しそうになった。
あの女ども……。もし、やり直せるなら……。
絶望が私を完全に飲み込もうとしたその時、穏やかな男性の声が、痛ましい記憶を突き破って聞こえてきた。
「やあ、僕は高峰恭平。困っているようだね――何か手伝おうか?」








