第1章 離婚
薄暗い地下診療所。
相沢千夏は簡素な治療ベッドに横たわり、見慣れた女医が嗅神経の修復処置を施していた。
「あなたの鼻、かなり重症よ。どうしてこんなことに?」
女医は眉をひそめ、器具を操作しながら小声で訊ねる。
相沢千夏は目を閉じたまま、かすれた声で答えた。
「香料を試してるとき、うっかり近づきすぎました」
隠す必要などなかった。
氷川隼人の病を治すため、この二年で数えきれないほどの毒香料を試してきた。毎回、自分の体で毒を確かめる――彼の体内の毒素を解く処方を見つけるために。
「抗体があるからって、そんな無茶をしていいわけじゃないでしょう。どうしてそこまで自分を追い込むの」
女医はため息をつき、口調を少し強めた。
「長期的な有害物質の接触が原因よ。これからは本当に気をつけなさい。放っておいたら、鼻が完全にダメになる。わかった?」
「この薬を持っていって。時間どおりに飲むこと」
相沢千夏はゆっくりと身を起こし、素直にうなずいた。
氷川隼人と結婚すると決めた時点で、覚悟はできていた。
それに見合うかどうか――
ぼんやり考えた瞬間、鼻腔から熱いものが溢れ出した。
相沢千夏は呆然と瞬きをし、指で鼻に触れる。掌にべっとりとついたのは真っ赤な血だった。
「石川先生、わたし……」
言い終える前に視界がすとんと落ち、ぐらりと眩暈が襲う。相沢千夏はそのまま、また倒れ込んだ。
「えっ――!」
最後に耳に入ったのは、石川先生の焦った声だけだった。
二時間後。
相沢千夏の濃い睫毛が震え、ゆっくりと目が開く。手探りで身体を起こした。
「目が覚めた?」
石川先生は気配に気づくと振り返り、静かに訊ねた。
「具合はどう?」
相沢千夏は血の気のない唇でうなずき、先ほどの出来事を思い出して申し訳なさそうに言う。
「すみません……ご迷惑を。もう帰ります」
「その状態で一人で帰れるわけないでしょう」
石川先生の顔色も冴えない。
「どうせここ、患者も少ないし。送っていくわ」
相沢千夏ははっとして、軽く首を振った。無理に立ち上がる。
「ありがとうございます。でも、大丈夫です」
石川先生はしばらく彼女を見つめ、複雑そうにため息をつくと、それ以上は強いなかった。道中気をつけるようにと言い添える。
薄暗い地下診療所を出る。
相沢千夏は新鮮な空気を深く吸い込んだ――けれど、何の匂いもしなかった。
二年に及ぶ香料の実験は、氷川隼人の隠れた病を治した代わりに、彼女の嗅覚を壊した。
本来は鼻が利くほうだったのに、いまは何も感じない。調香師にとって、それは致命傷だ。
それでも氷川隼人は何ひとつ知らず、彼女に冷淡で、無関心で、どうでもいい顔をする。
相沢千夏はふっと冷笑した。
こめかみを揉み、スマホを取り出して配車アプリを開こうとして――通話履歴に目が止まった。
氷川隼人へ発信した記録が十数件。すべて未接。
指先がわずかに震える。
緊急連絡先の設定はずっと氷川隼人だった。
時刻を見る。おそらく石川先生が彼に電話し、迎えに来るよう頼んだのだろう。
なのに彼は、こうして平然と無視した。
石川先生は彼女の気持ちを慮って、黙っていたに違いない。
画面に表示された目立つメモ――「旦那さん」。
それを見ただけで胃がむかむかした。
迎えを待っていたら血が尽きていたとしても、氷川隼人は冷たく鼻で笑い、「まだ死んでないのか」とでも言うのだろう。
哀れで、惨めで、失敗した女。
心臓が細かな針で刺されるように痛む。
相沢千夏は手で目元を覆い、指の隙間から涙をこぼした。
しばらくして気持ちを整え、車に乗り込む。車内は静かで、柔らかな音楽だけが流れていた。
相沢千夏は気を紛らわせるように漫然とスマホを眺めていると、ニュースが目に飛び込んできた。
「衝撃! 二年前、海外で事故死したとされる小林グループ令嬢・小林華絵が『奇跡の生還』。今朝、無事に帰国――」
相沢千夏は凍りついた。
小林華絵。
氷川隼人の初恋。彼の胸の奥で、決して枯れない高嶺の花。
写真の彼女は相変わらず息を呑むほど美しい。白いドレスに身を包み、スポットライトの下で白鳥のように優雅だった。
「お客さん、前が工事で通れないんですよ」
運転手が声をかける。
「ここから少し歩いてもらうことになります」
相沢千夏は我に返り、前方を見る。たしかに工事の柵が張られている。
小さく息をつき、降車した。
今日は本当にツイてない。
夜風が冷たい。上着をきゅっと掻き合わせ、人通りのある歩道をゆっくり進む。
高級レストランの前を通りかかったとき、ガラス越しに個室の中がちらりと見えた。
窓際の席に氷川隼人。向かいに座るのは見覚えのある横顔。
小林華絵は朝の白いドレスを脱ぎ、シャンパン色のイブニングドレスに着替えていた。黒髪が滝のように肩へ流れ、全身から気品が漂う。
二人の距離は近い。小林華絵の指が氷川隼人の頬を撫で、切れ長の瞳に陶酔が宿る。
人の接触を嫌うはずの氷川隼人は、避けもしない。
テーブルにはシャンパンの瓶とケーキ。何かの祝い――再会の祝いだ。
相沢千夏は、ふっと笑った。
ガラス越しでも、氷川隼人は目を奪う男だった。ジャケットを脱ぎ、広い肩と引き締まった腰が灯りの中で際立つ。座っていても、長身が放つ圧が伝わる。
彫刻のような横顔。通った鼻筋、深い眼差し、いつも結ばれた薄い唇。
権も財もある。才も顔もある。彼女を愛さないこと以外、欠点が見当たらない。
神が世の美を惜しみなく注いだ男――
その冷徹で自制的な“神の寵児”が、相沢千夏の知らないやわらかな表情で、小林華絵だけを見つめている。
思うべきだった。
小林華絵が帰国すれば、氷川隼人が彼女のもとへ行くのは当然だ。
自分は地下診療所で気を失っていたのに、彼は想い人と再会を祝っている。
結婚して二年。
氷川隼人が相沢千夏に向けたものは、いつだって嫌悪だけだった。
彼は相沢千夏を疫病神だと言い張り、小林華絵の死が彼女のせいだと頑なに信じた。
彼女が丹精込めて調合したアロマを何度も投げ捨て、「中に薬を仕込んだだろう」と責め立てた。
彼の目には、相沢千夏はいつも下劣な女として映っている。
けれどこの結婚は、相沢千夏のようなただの女が選べるものじゃない。
妹は重い病で、莫大な手術費が要る。K市で彼女を救える可能性があるのは氷川家だけ。
たった一人の家族を救うため、相沢千夏は氷川隼人の母の条件――彼と結婚することを呑むしかなかった。
いま、氷川隼人の母は亡い。
二年の契約は終わった。
相沢千夏は約束どおり氷川隼人の隠れた病を治し、三十歳を越えて生きられる身体にし、問題なく勃起できるように――「本物の男」にしてやった。
もう、彼に借りはない。
相沢千夏は視線を落とし、冷たく打ち込む。
「契約期限が切れた。離婚しましょう」
