第2章 ずいぶん楽しそうだな

メッセージを送信し、相沢千夏がその場を離れようとしたとき、背後から聞き慣れた声が飛んできた。

「よう。相沢ん家の女じゃん。どうした? また隼人兄の監視か?」

振り返ると、小林瑛太が嘲るような顔で立っていた。小林華絵の弟で、十九歳。小林家に甘やかされて育ち、昔から千夏を目の敵にしている。

「考えすぎよ。たまたま通りかかっただけ」

相沢千夏は淡々と言い、これ以上関わる気はなかった。

小林瑛太は上から下まで値踏みするように眺め、くっと笑う。

「へぇ。白々しい。お前さ、なんだそのザマ。ボロボロの格好で出てきて、髪はぐちゃぐちゃ、顔色は最悪。それでよく氷川奥さんとか名乗れるよな」

声が大きい。通行人の視線がじわじわ集まる。

「やっぱ姉貴は命が太ぇわ。絶対生きてると思ってた」

瑛太はレストランをちらりと見て、言葉をさらに尖らせた。

「これで隼人兄も、やっとお前みたいな足手まといから解放される。見えた? 今夜はこっちの舞台なんだよ。空気読めるなら自分から離婚しろ。隼人兄に恥かかせんな。わかる?」

相沢千夏は拳を握りしめた。今日だけで、もう十分だ。

「言いたいことはそれで終わり?」

冷えた目で見返す。

「まだだ。お前の妹、植物人間だろ。死んでも――」

言い終える前に、千夏の怒りが爆ぜた。腕がしなる。

パァンッ!

乾いた音がホテル前に響き、小林瑛太の身体がぐらりと揺れた。赤く腫れ上がる頬を押さえ、呆然と千夏を見つめる。

「て、てめぇ……俺を殴ったのか?」

相沢千夏は手首を軽く回し、氷のような声で言った。

「私を罵るのは勝手。でも妹を巻き込まないで」

騒ぎに人が集まり、野次馬が輪を作る。

レストランの中にいた氷川隼人も異変に気づき、眉をひそめて早足で出てきた。小林華絵がその後ろに続く。

「どういうことだ」

隼人は瑛太の頬を見て、低く問う。

「姉貴! 隼人兄!」

瑛太は泣きそうな顔で千夏を指さした。

「こいつが殴った! ちょっと言っただけなのに!」

小林華絵はその光景を見た途端、目に涙を滲ませる。

「千夏さん……どうして瑛太を叩くの? まだ子どもなのよ。言い方が悪くても、手を出すなんて……」

相沢千夏は笑っているようで笑っていない顔のまま、淡々と言った。

「ここ、十八歳で成人ですよね。子どもですか?」

「でも、あなたより年下でしょう? 大人が大人げないことをして……」

華絵は涙をこぼしながら訴える。

「そんなふうに人を叩いて、隼人はどうしたらいいの?」

周囲がざわめき始めた。千夏がやりすぎだという声、瑛太が悪いという声。けれど大半は面白がっているだけだ。

瑛太は勢いづく。

「隼人兄、見ただろ! こいつはこういう女だ。野蛮で下品で、お前には釣り合わねぇ。姉貴みたいに優しくていい女こそ、お前の相手だろ! 邪魔されてたまるか!」

隼人の顔色がさらに悪くなり、千夏を見る目に露骨な嫌悪が宿る。

「もういい。家に帰ってろ」

――「帰ってろ」。

それは命令ではない。突き放す言葉だ。刃物みたいに、千夏の胸へ突き刺さる。

麻痺していると思っていたのに、まだ痛む。

「帰れ?」

相沢千夏は冷笑し、嘲るように言った。

「いいわ、帰ってあげる。離婚協議書はこの数日で用意させるから、署名して。あと――今日から覚えておいて。あなたが私に『帰れ』と言った回数だけ、あなたは私に頭を下げることになる」

そう言い捨て、野次馬の輪を一瞥して、千夏は背を向けた。

隼人はその背中を見つめ、理由のわからない苛立ちに胸がざらついた。目の奥が陰る。

華絵が隣でそっと言う。

「隼人、千夏さん、きっと疲れてるのよ。怒らないで」

だが隼人は珍しく、彼女に応じなかった。

レストランへ戻っても空気は気まずいまま、食事は早々に切り上げられ、友人たちを誘ってクラブへ流れた。

深夜。広い個室の隅で、氷川隼人は一人黙々と酒を飲んでいた。相沢千夏の言葉が、なぜか気分を最悪にしている。

離婚できる。喜ぶべきだ――そうだろう?

なのに、胸の内は重く、息が詰まる。

千夏はこれまで、あんなふうに背筋を伸ばして物を言わなかった。母が亡くなり、契約が切れた途端、別人のようだ。離婚したいのは、まるで彼女のほうだと言わんばかりに。

腹が立つ。

「隼人、飲みすぎよ。送っていこうか」

小林華絵が赤ワインを持って近づき、柔らかく言った。

彼女を見ると、隼人の眉間の皺が少しだけほどける。うなずき、酔いの残る身体で立ち上がった。

華絵は微笑み、そっと彼の手を支える。

「帰る前に、ちゃんと一杯、あなたに乾杯させて」

――そのワインには、薬が仕込まれていた。海外で手に入れた即効性の高いもの。

彼女は確信していた。自分の訃報を聞いたあとも、隼人の心には自分がいた。帰国して真相を話しても、彼は変わらず自分に優しい。

今夜こそ、彼を手に入れる。

氷川隼人は眉ひとつ動かさず、差し出されたグラスを受け取り、乾杯して一気に飲み干した。

華絵も暗紅の液体を喉へ流し込み、横目で彼の様子を伺う。瞳がきらりと光った。

手を引いて出ようとした瞬間、隼人のスマホが鳴った。

「氷川社長、いまどちらに……? 奥様が、倒れて……」

「何?」

隼人は眉を寄せ、相沢千夏の青白い顔が脳裏をよぎる。反射的に声が硬くなった。

「俺は淵夜クラブにいる。すぐ迎えに来い」

「隼人、どうしたの?」

華絵が不安げに訊く。

「大丈夫だ。木村が迎えに来る」

隼人はこめかみを揉んだ。身体の奥がじわりと熱を持ち始める。

「君は気をつけて帰れ。送らなくていい」

華絵は悔しさを飲み込み、笑顔で見送るしかなかった。車が遠ざかるのを見つめ、唇を噛む。

全部、相沢千夏のせい。今夜の計画が台無しだ。

十五分後、氷川隼人のマイバッハが別荘の門前に止まった。

彼は急いで降りる。整った顔に焦りが滲み、心臓が不自然に早い。

玄関で執事が迎え、言いよどむ。

「氷川社長、お帰りなさいませ。奥様は少し風邪をひかれただけで、先ほど目を覚まされ、いまお部屋で――それから……」

言い終える前に、隼人は寝室へ向かって大股で歩いた。ドアノブに手をかけたところで、ためらい、静かに扉を押し開ける。

入るより先に、笑い声が聞こえた。

「離婚できたら、国外へ気晴らしに行こう」

風見礼司が相沢千夏の手を握り、優しい声で言う。

「R国に嗅覚の治療が専門の友人がいる。君の助けになるかもしれない」

相沢千夏の声は喜びを帯びる。

「ありがとう、礼司」

隼人は目を細めた。ベッド脇の男は、千夏の幼なじみだという風見礼司。数回会ったことがある。

胸の奥に、理由のない苛立ちが湧き上がる。

そして、冷たく怒りを押し殺した声が室内を切り裂いた。

「ずいぶん楽しそうだな。何の話をしてる?」

前のチャプター
次のチャプター