第5章 狂った

「いいえ、私は……」

相沢千夏は眉をひそめ、断りかけた。けれど、風見礼司のどこか固い表情が視界に入った瞬間、言葉が喉で止まる。――この人、今日は本気だ。どうやっても検査させる気だ。

彼女は小さく息を吐き、折れた。

「……わかったわ」

その返事に、風見礼司の顔がようやく和らぐ。いつもの、穏やかで上品な笑みに戻っていった。

彼は手を離さない。相沢千夏も振りほどかなかった。

手をつないだまま、二人は病院の廊下を歩いていく。風見礼司は歩調を合わせつつ、必要な検査項目を順に告げ、相沢千夏は静かに聞いて、ときおり小さくうなずいた。

「安心して。すぐ終わる。時間は取らせないよ」

ちょうどそのとき、エレベーターの扉が開いた。

少し離れた場所にいた男の耳に、風見礼司の声が届く。

酒井陽介。長身で、グレーのスーツをさらりと着こなした男が、大股で降りてくる。そして、二人とすれ違いざま――相沢千夏を一目で見抜いた。

彼はわずかに身体をひねり、遠ざかっていく“親密な背中”を眺める。面白がるように眉を上げた。

氷川隼人の友人であり、悪友でもある。氷川家の病院には、たまに顔を出す男だ。

「こりゃ……面白い」

酒井陽介は小さく呟き、スマホを取り出す。

気配を消したまま、手をつないで歩く二人の写真をさりげなく撮り、すぐさまメッセージを打ち込んで氷川隼人へ送信した。

【相沢さん、もうすぐお前の元奥さんになりそうだな。[画像]】

一方、氷川家の別荘。

氷川隼人は珍しく早く帰宅し、広いリビングに一人で座っていた。家の中はがらんとして、空気まで冷えているように感じる。

苛立ちは朝から消えなかった。普段なら薬を盛った相手を炙り出すところだが、今回はそんな気力すら湧かなかった。

しかも、執事の口から聞くまで知らなかったのだ。相沢千夏と風見礼司が、ここまで近いとは。ほんの些細なことで駆けつける男。さらに相沢千夏は本気で離婚する気だ。

昨夜、彼女の身体に触れたときの柔らかさが蘇り、胸が不意に脈打つ。

「……チッ」

氷川隼人は苛立たしげに前髪を乱暴にかき上げ、無造作にスマホを手に取った。

酒井陽介からのメッセージを見た瞬間、顔色がすとんと落ちる。

見覚えのある背中。昨夜会ったばかりだ。

氷川隼人はスマホを握り潰しそうになり、瞳に怒りが灯る。

――また風見礼司か。目障りな男。

まだ離婚もしていないのに、もう次へ行く気か。

男とべたべたして……俺を空気扱いか。

次の瞬間、氷川隼人は立ち上がり、テーブルのカップを床へ叩きつけた。

ガシャン!

「木村、今すぐ相沢千夏に電話しろ」

秘書へ通話を繋ぎ、怒気を滲ませる。

「どこにいようと構わん。今すぐ会う。戻ってこいと言え」

木村秘書の声が震えた。

「は、はい……氷川社長」

通話を切った木村秘書は、頭を抱える。

「はぁ……ほんと、この二人は厄介だ」

社長自身が相沢千夏の番号を知っているくせに、わざわざ自分を伝書鳩にする。

しかも昨夜、相沢千夏は倒れる直前、執事へ『氷川隼人に連絡しないで』と言ったらしい。それでも執事が電話を入れ、結局自分が掛け直して知らせる羽目になったのだ。

――胃が痛い。

三十分後。夜10時05分。

相沢千夏は木村秘書に連れられ、氷川家へ戻ってきた。

「帰る気はあったんだな」

氷川隼人は陰気な顔で睨み、声は氷のように冷たい。

相沢千夏は無表情でうなずいた。

「ええ」

靴を履き替え、落ち着いた仕草で言う。

「急に呼び戻したのは、離婚届に署名する気になったから?」

氷川隼人の口元が歪む。嘲ってやろうとした、そのとき――彼女の鼻に、小さなテープが貼られているのが目に入った。

「鼻、どうした」

相沢千夏は一瞬だけ、彼の声に“心配”の色を感じた気がした。

――気のせいだ。

「よく言いますね、氷川社長」

唇の端を持ち上げ、嘲りの視線を向ける。

氷川の母が亡くなったいま、相沢千夏に秘密を守る義務はない。真実を言うも言わないも自由だ。

嗅覚の異常は検査でも出る。風見礼司は彼女を気遣い、外用薬も持たせた。好意を無下にする理由もなかった。

けれど――この男に説明する気にはなれない。

「……もういい。用がないなら、署名もしないなら、部屋で休むわ」

相沢千夏は視線を引き、丁寧だがよそよそしい声で言って、階段へ向かおうとする。

「相沢千夏」

氷川隼人が詰め寄り、声が急に冷たく尖った。

「風見礼司にいくらもらった。どれだけ金を積まれたら、あいつのベッドにそこまで忠実になれる」

相沢千夏は堪えきれず笑った。怒りと嘲りが混じった笑いだ。

「氷川社長、面白いことを言うわ」

「友だち関係まで、あなたと小林さんみたいに汚いと思わないで」

「俺が間違ってるか?」

氷川隼人は冷笑する。

「華絵が好きなのは事実だが、俺はお前みたいに厚かましく、離婚前から異性と曖昧なことはしない。下品だ」

「氷川隼人、病気なの?」

相沢千夏は眉をひそめ、怒りをにじませた。

「本気で馬鹿なの? 昨夜あなたに薬を盛ったの、小林華絵以外に誰がいるの。あなたが帰ってこなかったら何が起きたか、わからないわけ?」

こめかみがずきずき痛む。相沢千夏は深呼吸し、少し落ち着いた声で続けた。

「今日は疲れた。喧嘩する気はない。好きに思えばいい。でも礼司とは昔から仲がいい。満足?」

そして、冷たく言い捨てる。

「精力が余ってるなら、あなたの高嶺の花にでもぶつければいい」

言い切って、反論の隙を与えず階段を上がった。

氷川隼人は拳を握り、関節が鳴った。

違う。聞きたいのは、そんな言葉じゃない。

どこで間違った?

俺は相沢千夏を好きじゃない。なのに、いったい何に腹を立てている?

「当時、お前たちが結託して俺に結婚を押しつけた」

氷川隼人の声が荒くなる。

「いま金が取れなくなったら、好きに出入りして逃げるのか。俺と氷川家を何だと思ってる」

そして、決定的な一言を叩きつけた。

「お前が離婚したいなら、なおさらしてやらない。お前は一生、俺から逃げられない」

相沢千夏の足が止まった。

振り返りもしない。返事もしない。

ただ――胸の奥で結論だけが静かに固まっていく。

氷川隼人は、狂っている。

前のチャプター
次のチャプター