第8章 自業自得
美術館を出るころには、すっかり夜になっていた。門前の広場を、街灯の光が白く照らしている。
酒井陽介は、車を氷川隼人に乗っていかれたことを思い出して、ふっと息を吐いた。
「待ってろ。運転手呼ぶから」
そう言いながら顔を上げた瞬間、見覚えのあるようで、どこか距離のある影が視界に入る。
栗山弥希だ。黒のビジネススーツ姿で、白いBMWから降りてくる。どうやら会社から駆けつけたばかりらしい。
弥希も相沢千夏と酒井陽介に気づき、陽介に視線がかかったところで、表情がわずかに揺れた。
次の瞬間、弥希は早足で千夏のところへ来ると、有無を言わさず彼女を自分の横へ引き寄せた。
三人の立ち位置が、きれいな三角形になる。
言葉にしがたい気まずさと張りつめた空気が、そこに漂った。
「千夏、迎えに来た」
栗山弥希は軽い調子を装い、酒井陽介の存在はまるで見えていないみたいに、完全に無視した。
酒井陽介は口を開きかけた。何か言おうとして、結局、何も言えない。
ただ立ち尽くし、弥希が千夏を連れて車へ向かうのを見送った。いつもなら浮かべているはずの軽薄な笑みが、その顔からすっぽり消えている。
弥希がドアを開け、千夏が助手席へ滑り込む。続けて弥希も運転席へ。
その一連の流れの中で、弥希は一度も陽介を見なかった。もちろん、言葉もない。
車内。
千夏はシートベルトを締めると、窓の外でまだ立っている陽介をちらりと振り返り、次に、ハンドルを握る弥希の強ばった横顔を見た。
「ふたりとも『一生関わらない』ってやつ、完璧に演じるよね」
千夏が冗談めかして言う。
弥希の指先がハンドルをきゅっと締めた。
「もう、やめて。茶化さないで」
千夏は察して、話題を変えるように笑った。
「助かった。来たのが弥希じゃなかったら、またあの最悪な別荘に戻るところだった」
「あと数分、連絡が遅かったら誰にも救えなかった」
弥希は唇を尖らせる。
「それで、香水のアトリエはどう? 順調?」
「順調。遅くても来月末にはオープンできるよ」
千夏は明るく答える。ちょうどそのころには、鼻も治るはずだ。
「うちの“大株主さん”は、いつ店に来る? 弥希がいなかったら、私いまごろ誰かの下で働いてた」
数日前。
千夏が仕事を探していたとき、立地のいい店舗が格安で譲渡に出ているのを偶然見つけた。逃したくない——そう思った。貯金は足りない。でも、頼れる相手がいる。
アトリエをやりたいと弥希に話すと、弥希は二つ返事で了承し、その場で物件を押さえ、改装費まで全部引き受けてくれたのだ。
「株主とか言わないで」
弥希は口元を少し上げる。
「私はただ、あんたの実力を信じてるだけ。前金で出した分、返してくれたらそれでいい。持ち分とかいらないよ。妹もいるんだし」
「本気で信じてるなら、私の言う通りにして」
千夏は横目で弥希を見て、真剣に言った。
「持ち分は半分ずつ」
弥希はルームミラー越しに千夏を見て、唇を結ぶ。
「……じゃあ、あんた6、私4。それでいい? 明日ちょうど時間あるし、見に行く」
その言葉に、千夏はようやく満足そうに笑った。
「うん。それで」
一方、市立病院の救急外来。
氷川隼人は小林華絵の検査に付き添い、医師から「軽い捻挫で骨折はない。数日安静にすれば治る」と告げられた。
手続きまで終えると、隼人は帰ろうとする。
「隼人、今夜……病院に泊まりたい」
華絵が彼の手をつかむ。期待に濡れた目で見上げた。
「一緒にいてくれる?」
隼人は眉を寄せる。
「重症じゃない。帰って休め。運転手をつける」
「でも……瑛太や両親に心配かけたくないの」
華絵は視線を落とし、下唇をそっと噛んだ。
「隼人、出張の間……どうして急に冷たくなったの? 前はこんなこと、なかった。忙しくても電話する、メッセージ送るって約束したのに……私が戻ってきたのに、もう全部なかったことなの?」
隼人の眉間の皺が深くなる。返事をせず、長い沈黙だけが落ちた。
華絵の胸がざわざわと波立つ。
——まさか、あの夜の薬のことに気づいた?
隼人がいちばん嫌うのは、そういう卑怯な手段だ。本当は事後に別の“処理”まで用意していた。だが計画は潰れ、隼人は何も言わない。こちらから触れたら最後、自爆するだけ。
そうでなければ、冷たくなる理由が思い当たらない。
華絵は指先を握りしめ、どう動くべきか迷っていた。
ふいに、隼人が先に口を開く。
「華絵。考えすぎるな」
彼は手を伸ばし、華絵の頬を軽く撫でた。声だけが少し柔らかい。
「用事がある。先に行く」
本当に出ていこうとする背中を見て、華絵の不安はさらに膨らむ。
彼は確実に、自分から遠ざかっている。原因は——相沢千夏だ。
もし千夏が妊娠でもしたら? 子どもを盾に隼人を縛るかもしれない。
そんなの、許せない。先に手を打たなければ。
「隼人……!」
華絵は無理に身を起こし、背後から彼に抱きついた。声が震える。
「あなたの中で……千夏さんが、私より大事になったの?」
その名前を聞いた瞬間、隼人の表情がほんのわずかに揺れた。
薬の件を掘り返さないのは、真実を知りたくないからだ。
知らなければ、華絵はいつまでも「最初の、汚れのない彼女」でいられる。疑わずに済む。必要なのは時間だけ。
そして千夏の冷たさ、距離、風見礼司を庇う態度——それらが隼人の胸をざわつかせ、苛立ちを増幅させていた。
隼人は眉を寄せ、華絵の腕をそっと外す。答えない。視線も向けない。
そのまま冷たく病室を出ていった。
残されたのは、華絵の小さなすすり泣きだけ。
病院を出た隼人は酒井陽介へ電話をかけ、状況を確認した。だが返ってきたのは、千夏はすでに栗山弥希が連れていった、という報告だった。
「お前はどれだけ役立たずなんだ。女一人にすら勝てないのか」
隼人の声は噛み殺した怒りで硬い。
「見張れと言っただろう。……いや、なんで早く言わない」
『お前が華絵ちゃん優先したんだろ。俺のせいにすんな』
酒井陽介が苛立った声で返す。
『相沢千夏は俺の妻じゃない。送るってだけでも十分だろ』
『栗山弥希とのこと、お前だって知ってるだろ。俺にどうしろってんだ』
『とにかく、あいつ絡みは期待すんな。自分で何とかしろ』
一方的に通話が切れた。
隼人はスマホを握りしめ、顔色を暗くした。怒りで、頬の筋肉がこわばっていく。
