第9章 誰かが撃ってる
翌朝。K市のトレンドは爆発した。
「風見礼司、氷川夫人・相沢千夏の香水アトリエを全面支援」
「氷川グループ名門夫婦、会場で対峙」
「小林華絵が捻挫、氷川隼人が姫抱きで病院へ」
「氷川隼人は相沢千夏を愛したことがない」
……。
四人の名が芸能面の見出しを埋め尽くし、相関図は豪門恋愛ドラマそのもの。下手な連ドラよりよほど面白い、とまで囁かれていた。
桐野マンション。
栗山弥希はソファに寝転がってニュースをスクロールし、ひたすら笑っている。
相沢千夏はコーヒーを持ってきて、画面をちらりと見た。小さくため息を落とす。
「もう見るのやめなよ。店に行く準備」
「最近のカメラマン、腕上げたよね」
弥希はからかうように言った。
「正直さ、あんたと氷川隼人が見つめ合ってるカット、ちょっと雰囲気あった。離婚応援してる人も多いし。まあ、好き勝手言うのも山ほどいるけど」
「雰囲気とか言わないで」
千夏は白けた目を向ける。
「口だけの応援なんて意味ない。ほんとに味方するなら、氷川隼人を法廷に引きずり出す手伝いでもしてほしい」
「それは風見礼司の仕事でしょ」
弥希は鼻を鳴らした。
「今回、宣伝としては大成功じゃん」
千夏はコーヒーを一口。少しだけ声を落とす。
「昨夜、礼司から謝罪が来た。隼人が来るなんて思わなかったって」
「責められないし……私はもう、氷川隼人がどう思うかなんて気にしてない」
「アトリエに話題が出るのは悪くないよね」
弥希は深くうなずいた。
しばらくして、二人はマンションを出た。
桐野マンションから少し離れた街角に、黒いポルシェ・カイエンが朝から停まっている。
助手席には氷川隼人。サングラス越しに出入口を冷たく見張る。
運転席の酒井陽介は、呆れた顔のままハンドルに肘をついた。
「社長さぁ、何してんすか」
陽介がたまらずぼやく。
「朝イチで会社にも行かず、俺を連れてここまで来て。元奥さんの尾行?」
「違う。通り道だ」
隼人は平然と言った。
「通り道じゃないっす。ここ、会社行く道じゃねぇ」
隼人がちらりと目線を投げる。
「黙れ」
「認めりゃいいじゃないすか。もう心変わりしてんだって」
陽介は勢いづき、さらに突っ込む。
「好きだから離婚しないって言えば一発なのに。何を意地張ってんすか」
「俺があいつを好き?」
隼人は眉をひそめ、声が一段冷える。
「頭がおかしい。単に気に入らないだけだ。落ちぶれれば落ちぶれるほど、こっちは愉快になる」
「器ちっさ」
陽介はわざとらしく顔をしかめた。
「本気で気に入らないなら、夜中に住所まで調べさせたりしないっすよ。1回見て足りなくて、また見に来ただけでしょ」
隼人の視線が刃みたいに鋭くなる。陽介は肩をすくめて黙った。
そのとき、マンションの自動ドアが開いた。
相沢千夏と栗山弥希が並んで出てくる。
千夏はベージュのトレンチコート。長い髪を下ろし、顔色もいい。
弥希は目を引く赤いワンピースで、二人は笑いながら駐車場へ向かっていた。
隼人の視線は千夏に吸い寄せられたまま、離れない。
その異様な集中に、陽介ですら舌を巻く。
「……見飽きました?」
「何を」
陽介はもう相手にする気も失せ、目を閉じてシートに凭れた。
「好きに見ててください。俺、仮眠します」
二人の車が走り去ってようやく、隼人が陽介の肩を乱暴に叩いた。
「起きろ」
「うわっ! 痛ぇ!」
陽介が飛び起き、悪態をつく。
「何すんすか、びびるだろ!」
「いいから運転しろ」
隼人の声は命令だった。
陽介はぶつぶつ言いながらエンジンをかけた。
一か月後。
K市のミラン通りに、香水アトリエ「アトリエ・シーアン」がオープンした。
内装は上品で、ガラス張りの店内は光に満ちている。入口には花が溢れ、ふわりと淡い香りが漂っていた。
開店初日から客は途切れない。
香りに誘われて入ってくる者もいれば、噂を嗅ぎつけて野次馬気分で覗く者もいる。
相沢千夏は水色のドレスを纏っていた。
雪みたいに白い肌が際立ち、整った顔立ちがいっそう映える。以前の部屋着姿とは別人だ。
「千夏、おめでとう」
風見礼司がシャンパンローズの花束を差し出し、柔らかく笑う。
「開店、おめでとう」
「ありがとう」
千夏は花束を受け取り、心から嬉しそうに笑った。
「礼司と弥希がいなかったら、こんなに早く開けなかった」
「K市でいちばん気持ちいい香り」
弥希が目を輝かせる。
「相沢社長、今日の売上、えげつないことになるんじゃない?」
「縁起いいこと言うね」
千夏も笑って返した。
「じゃ、借りとく」
少し離れたカフェ。
見知らぬ男たちが、窓越しに店の様子を無言で眺めていた。
金縁眼鏡の中年男がカップを置く。
「確認した。あれだ」
隣の黒服が低く問う。
「いつ動きます?」
「焦るな」
中年男は眼鏡を押し上げ、目の奥に冷たい光を灯した。
「少しだけいい気分にさせてやれ。夜だ」
時が過ぎる。
弥希と礼司は先に帰り、客足も落ち着いていった。
夜。店内に残ったのは千夏ひとり。
22時半。千夏は鍵をかけ、シャッターを下ろす。
その背中に、怒鳴り声が飛んだ。
「相沢千夏!」
振り向くと、小林瑛太が立っていた。酒の匂いがきつい。酔っている。
「この疫病神が!」
瑛太は品もなく吐き捨てる。
「姉貴が最近どんだけ苦しいと思ってんだ! 全部お前のせいだ!」
千夏は眉を上げた。
知らない。関係ない。
相手をせずに脇道へ折れ、小路へ入る。
瑛太が苛立ち、追いすがった。
「店なんか開いたからって調子乗んな!」
唾を飛ばしながら怒鳴る。
「いいか、姉貴は隼人兄の子どもを妊娠したんだ! さっさと離婚しろ! じゃねぇと、痛い目見るぞ!」
次の瞬間。
パンッ! パンッ! パンッ!
乾いた破裂音が路地を裂いた。
弾丸が千夏の髪と耳をかすめ、背後の壁に叩き込まれる。ドスッ、と鈍い音。
瑛太の顔から血の気が引いた。
「じゅ、銃……!」
膝が抜け、地面へ崩れ落ちる。声が震え、舌が回らない。
「撃ってる……誰かが、撃ってる……!」
