第1章
GPSは到着を告げたけれど、そんなはずはなかった。
私はドアの部屋番号を見つめた。D12。両親が75万円もかけて予約してくれた、高級産後ケアスイートのD03じゃない。ここは、病室より少し広いだけの、ごく普通の個室だ。
「すみません」紗織がぐずり始めたので、優しくあやしながら、通りかかった看護師に声をかけた。「間違いだと思うのですが。私、東雲恵蓮と申します。D03号室のはずなんですけど……?」
看護師はタブレットを確認し、眉をひそめた。「ええと……東雲奥様、はい。ですが、こちらではご予約がD12号室に変更されていますね。先週、ご主人がいらして予約を修正されました」
胃の腑が冷たくなるのを感じた。「ええ?夫が、変更を?」
「はい。ご家庭の事情でスイートではなく、お部屋を二つに分けたいと。東雲様がD12号室、そして……」彼女は画面をスクロールさせた。「真嶋玲奈様がD15号室です」
玲奈。姑が世界で一番気に入っている人物。夫の弟の恋人で、彼女も最近出産したばかりだ。
「D15号室はどこですか?」心の一部では、もう分かっていたけれど、私は尋ねた。
「この廊下の突き当りですよ、庭の見える角部屋のスイートです」
私の角部屋のスイート。ジェットバス付きのプライベートバスルームがある部屋。母が私のために特製の回復スープを作ってくれるはずだった、ミニキッチン付きの部屋。
三日前の出産でまだ痛む体を引きずり、おぼつかない足取りで廊下を進んだ。紗織は胸に抱かれて小さな寝息を立てている。自分の世界がすでに切り分けられ、誰かに与えられてしまっているなんて、まったく気づかずに。
D15号室のドアは、少しだけ開いていた。中から声が聞こえる。
「……この力強い小さなお手手を見てちょうだい」吐き気のするような甘ったるい声。私の姑、美智の声だ。
ちぇっ、紗織の存在なんて、ほとんど気にも留めなかったくせに。
私はドアを押し開けた。
玲奈はキングサイズのベッドの上で身を起こしていた。二日前に出産したばかりとは思えないほど、まるで雑誌の表紙のようだ。長く艶やかな黒髪は完璧にセットされ、見たこともないシルクのローブを身にまとっている。美智はその隣に座り、見覚えのある魔法瓶から彼女にスープを飲ませていた。
母の魔法瓶。母が私のために、何時間もかけて作ってくれた、伝統的な回復スープが入っている、あの魔法瓶。
紗織のものになるはずだった高級バシネットでは、小さな男の子が眠っていた。
「恵蓮!」美智は顔を上げたが、罪悪感など微塵も見せていない。「ちょうどよかったわ。玲奈に、ようやく我が家に男の孫ができて、どれだけ恵まれているかって話をしてたところよ」
ようやく。まるで紗織は数に入らないとでも言うように。
「それ、私のスープです」私は魔法瓶を睨みつけながら言った。思ったより、か細い声が出た。
「あら、これ?」美智は初めて見るかのように魔法瓶を持ち上げた。「さっき香蓮さんが届けてくれたのよ。健康な男の子を産んでくれた玲奈ちゃんにぴったりだと思って。男の子を産んだばかりのお母さんは、特別に労わってあげないといけないでしょう?」
私たちに男の子を産んでくれたお母さん。その言葉は、平手打ちのように私を打ちのめした。
部屋を見回すと、胸が締め付けられた。私が紗織のために選んだオーガニックコットンのベビーブランケットが、ドレッサーの上にきちんと畳まれている。両親が買ってくれた専用の哺乳瓶消毒器が、窓辺でコンセントにつながれている。大学時代のルームメイトが作ってくれた手作りのモビールでさえ、玲奈の息子が眠るバシネットの上に吊るされていた。
「紗織の物はどこですか?」と私は尋ねた。
「ああ、あれね」美智は面倒くさそうに手を振った。「あなたの部屋に移しておいたわよ。紗織ちゃんはまだ小さいから、どんなブランケットを使っているかなんて気づきもしないでしょう。でも、男の子には最初から最高のものが必要なのよ」
玲奈が私に甘く微笑んだ。「気にしないでくれると嬉しいわ、恵蓮さん。お母さんが、家族なんだから何でも分け合うものだって」
「それに」美智は立ち上がってシャツのしわを伸ばしながら続けた。「あなたにこんな贅沢は必要ないでしょう。足もああだし、どうせ庭に出ることもできないんだから。それに正直なところ、この照明だと玲奈ちゃんのほうがずっと写真映りがいいもの。彼女は、東雲家の跡継ぎを産んでくれたんだから」
私の足って.......彼女は本当にそう言った。三年前の交通事故でできた私の傷跡のことを。あの事故では、夫の海翔がヒーローだった。療養中、毎日私の世話をしてくれた。
顔に熱が上るのを感じた。「このスイートは私の両親がお金を出したんです。私と紗織のために」
「それが今、正しい目的で使われているじゃないの」まるで私がおかしなことを言っているかのように、彼女は答えた。「玲奈ちゃんは男の子を産んでくれたのよ。ここが、あの子のいるべき場所なの」
東雲家の男の子。紗織はただの価値のない娘だから。
背後で足音がして振り返ると、海翔が階下のカフェからコーヒーカップを持って入ってくるところだった。夫は私を見ると青ざめ、その青い瞳には罪悪感のようなものが浮かんでいた。
「恵蓮!早かったんだな」彼は急いでコーヒーを置いた。「説明しようと思ってたんだ.......」
「何を説明するの?」紗織を反対の腕に抱きかえる。だんだん重くなってきて、切開した傷が痛み始めた。「どうして私たちの部屋を人にあげたのか説明するの?どうして紗織の物が他の人に使われているのか説明するの?」
「そういうことじゃないんだ」海翔は神経質になるときによくやる癖で、髪を手でかき上げた。普段なら愛おしく思うその仕草も、今日に限ってはただ腹が立つだけだった。「母さんから電話があって、玲奈さんと赤ちゃんには広い部屋が必要だって言うからさ。みんな家族だろ?どの部屋にいたって同じじゃないか、って思ったんだ」
「違いはあるわ。私の両親がこの部屋代を払ったの。自分の娘と孫娘のために」
「恵蓮、頼むから」彼の声は低くなり、まるでヒステリックな女をなだめようとしているかのようだった。「二人きりで話せないか?何でもないことで興奮しすぎだよ」
はあ?何でもないこと。紗織の生後一週間が、何でもないことだなんて。
美智はベッドサイドテーブルからスマートフォンを手に取った。「あら、ちょうどいいタイミングで写真が撮れるわ。玲奈ちゃん、その可愛い坊やを抱き上げて。今、光の加減が最高よ」
私は彼女が、私のベッドで、私の物に囲まれて、私の母の魔法瓶でスープを飲みながら息子を抱く玲奈の写真を何枚も撮るのを見ていた。そして彼女はスマートフォンを操作し始めた。
「何をしているんですか?」私は尋ねた。
「私がどれだけ素晴らしい嫁を持ったか、投稿しているだけよ」美智は顔も上げずに言った。「本当に大切なこと、私たちに男の子を授けてくれることを理解してくれる家族に感謝だわ」
彼女はスマートフォンを私に向けた。インスタグラムの投稿はすでに公開されていた。キャプションにはこう書かれている。【愛するお嫁さんと大切な孫の産後のケアができて、本当に恵まれています。家族がすべて!💕 #恵まれてる #家族 #新米おばあちゃん #東雲家の男の子】
写真には、豪華なスイートで満面の笑みを浮かべ、母性愛に満ちた絆をアピールする美智と玲奈が写っており、男の子の赤ちゃんが目立つように写し出されていた。私が存在していることなど、誰も知らないだろう。
紗織が存在していることなど、誰も知らないだろう。
私は画面を見つめながら、胸の中に冷たい何かが沈んでいくのを感じた。これは間違いや誤解なんかじゃない。これは意図的なものだ。計算されたものだ。
そして海翔も、その一部だった。
「紗織に授乳しないと」私は静かに言った。
「ええ、もちろんよ」美智はそう言うと、すでに玲奈と赤ちゃんの方に向き直っていた。「普通の部屋でも、基本的なケアに必要なものは全部揃っているから」
基本的なケア。九ヶ月もの間、楽しみにしているふりをしていた孫娘に対する、基本的なケア。
私は震える足で部屋を出た。廊下では、開け放たれたドアから美智の声が聞こえてきた。
「気にすることないわよ、あなた。あの子は昔から少し大げさなの。ホルモンのせいでしょう。大事なのは、あなたが私たちに素晴らしい男の子を産んでくれたってことよ」
D12号室に着くと、紗織は私の苦悩を感じ取ったかのように泣き出した。私は狭いベッドにどさりと腰を下ろし、殺風景な部屋を見回した。ミニキッチンはない。庭の眺めもない。専門的なベビー用品もない。
ただ、基本的なケアだけ。美智が言ったように。
スマートフォンのロックを解除し、もう一度あのインスタグラムの投稿を見た。すでに【いいね】が五十八件。美智の友人たちから、彼女がどれほど「献身的な姑」であるか、そして男の子の赤ちゃんがどれほど【ハンサム】かというコメントが並んでいた。
私についての言及は一つもない。
紗織についての言及も、一つもない。
私たちは、自分たちの物語から消し去られていた。
