第2章
「ご、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……っ」
西原雨子は声を震わせながら慌ててしゃがみ込み、床に落ちた名刺を拾い上げた。そうして同時に、自分の手を袖の中へ隠す。
頭上に落ちてくる視線は、まるで千斤の重みを持っているみたいで、顔を上げる勇気なんてとてもなかった。
「できるだけ早く……必ず、すぐにお返事します」
「いい協業になることを願っている」
頭上から、意味ありげなひと言がまた落ちてくる。
そろそろと顔を上げた時には、もう藤原英世の背中は遠ざかっていた。
西原雨子はほとんど逃げるように展示会場を飛び出した。
外は眩しいほどの陽射しなのに、彼女が感じているのは服の内側をじっとり濡らす冷や汗だけ。
昨夜の断片が呪いみたいに頭の中で何度も何度も再生される。薄暗い明かりの中の熱い体温、重たく絡みつく呼吸――そして、そのすべてと鮮やかに対照をなす、今日のあの冷えきった観察の目。
何度か深く息を吸って、ようやく指紋認証で玄関の鍵を開けた。
「雨子、帰ったの?」
母の林原愛の声がした。
果物の盛られた皿を持ってソファへ向かいながら、にこやかに手招きする。
「ほら、こっち来て。何か食べなさい」
「今日はどうだった?」
父の西原海人は老眼鏡をかけたままタブレットを操作し、ついでのように問いかけてくる。
「ありがとう、お母さん、お父さん」
西原雨子は腰を下ろした。さっきよりはだいぶ落ち着いている。
「発表は順調でした。そのあとで、藤原英世さんが……私たちのプロジェクトチームごと、あちらの会社と深く連携しないかって」
「藤原英世? 藤原の?」
西原海人は驚いて、鼻先にかかっていた眼鏡がずるりと落ちた。
「本人が直々に言ってきたのか?」
「うん」
「それはとんでもない話じゃないか」
林原愛もぱっと笑顔になる。
「ただ、藤原英世さんは見る目が厳しいからね。あの会社に入ったら、雨子にかかるプレッシャーは相当なものよ」
その言い方の裏にある意味を察して、西原雨子はすぐさま話に乗った。
「だったら、お姉ちゃんにチームを連れていってもらった方がいいよ! 私、本当に自信ないし!」
だが、西原海人は首を横に振る。
「七海にこれ以上負担をかけてどうする。おまえ自身も鍛えられるべきだ。これはいい機会なんだ」
西原七海が西原家に戻ってきてからというもの、両親ははっきりとは口にしない。けれど西原雨子自身、もう家業を継ぐ道が自分にはないことくらい、分かっていた。
だからこそ、彼女は仕事でもわざと少し手を抜いた。自分は何もできないふりをして、より多くの機会を西原七海へ譲ってきた。
母はそんな彼女を見て満足していたが、父だけは違った。父はずっと、彼女に一生をかけて育てられるだけの仕事を持たせたがっていた。
「陰で私の噂話?」
ちょうどその時、外から戻った西原七海が声を挟んだ。
「何の話してたの?」
西原雨子は慌てて説明し、最後にはちゃっかり言い添える。
「でも、あの企画書だってお姉ちゃんが直してくれたから良くなったんだよ!」
「そんなことないわ。土台の構成はあなたがちゃんと作ってたもの。私は少し整えただけ」
西原七海はやわらかく笑って答えた。
二人の笑みはどちらも自然で、わざとらしい持ち上げ合いには少しも見えない。
西原海人はそんな二人を意味ありげに眺めたが、何も言わず、ただひと言だけ告げた。
「やはり俺は、雨子が藤原へ行くべきだと思う」
「行っちゃいなよ」
西原七海もソファに腰を下ろし、果物をつまみながら笑う。
「もしかしたら藤原様に気に入られるかもしれないじゃない。そうなったら、うちも一気に飛躍できるわ」
西原雨子は思わずむせた。
「そんなわけないでしょ!」
心臓がどくどくと暴れ出し、頬まで熱くなる。家族に悟られないよう、彼女は慌てて話題を逸らした。
「それに私、ちゃんと婚約者もいるし!」
婚約者――大村賢也の名が出た途端、リビングにわずかな沈黙が落ちた。
大村家と西原家は代々の付き合いがあり、大村賢也と西原雨子の婚約もまた、幼い頃に決められたものだった。
けれど西原七海が戻ってきてから、大村賢也の西原雨子に対する態度は目に見えて冷たくなり、逆に西原七海へは妙に関心を向けるようになっていた。
短い静寂のあと、林原愛がため息をつく。
「あの子、最近ちっとも家に来ないわね」
西原七海は睫毛を伏せ、淡々と言った。
「新しい案件で忙しいみたい」
「うん……」
西原雨子はこれ以上下にいたくなかった。
「とにかく藤原様、1週間考えていいって言ってくれたから。あとでまた相談しようよ」
適当な口実をつけて二階へ逃げ込み、ベッドへ倒れ込んでようやく息を吐く。
藤原英世の手腕を思えば、もし昨夜の相手が自分だと気づいていたなら、今日みたいに何事もなかったような顔をしているはずがない。
唯一の綻びがあるとすれば、あのネックレスだ。
……でも部屋を出る前、ベッドの上は何度も手探りした。何も見つからなかった。隙間に落ちたのか、それともそもそも部屋では落としていなかったのか。
――あと3日。
西原雨子は胸の中でそっと数える。
3日経っても藤原英世があの夜の相手にたどり着かなければ、自分はもう安全だ。決めるのは、その時でいい。
翌日、西原七海はいつも通り西原グループへ出勤した。
少し渋滞していて、会社まであとひとつ交差点を残すところで、1台のストレッチリムジンが彼女の車の前にすっと横付けされる。
その車をひと目見ただけで、誰のものか分かった。心臓がどくんと大きく跳ねる。
助手席のドアが開き、白手袋をはめた補佐がうやうやしく彼女を車内へと案内した。
豪奢なシートに腰を下ろすと、向かいには藤原英世が座っている。
「このネックレス、君のものか?」
透明なクリスタルケースの中に横たわっていたのは、ダイヤのネックレス。世界的なデザイナーKonnitによる作品で、世界に1本しかない。
そして当然ながら、ここにあるものが偽物だなどと、誰も思わない。
「ええと……」
西原七海は即答せず、頭を高速で回転させた。
「オークションで君が落札したものだと調べた。おとといの酒席では、君がこれを身につけていたのか?」
藤原英世の声は、外で見せる時のような氷の冷たさを少しだけ薄めていた。
それが西原七海に、わずかな勇気を与える。
「……私です」
西原家には昔からひとつの考え方がある。人は贅沢品に飾り立てられる必要はない、と。
だから高価な宝石はたいてい銀行の貸金庫に眠り、社交の場で身につけるのは大半が精巧なレプリカだった。
西原七海はよく知っている。本物のネックレスは自分の手で保管した。なら、この人工ダイヤのネックレスは、あの夜、西原雨子に貸したあの1本に違いない。
徹夜で戻らなかった妹。平静を装っていた、あの顔。
それらが一瞬でひとつに繋がり、真相が見えた。
「その夜は……」
西原七海は羞じらうように目を伏せ、小さな声で言った。
「すみません。あの時、私……すごく慌ててしまって」
「君を責めるつもりはない」
藤原英世の声は赤ワインのように深く、低い。その視線は、話しながらも彼女を測るように静かに動いていた。
あの夜の女の香り。ベッドの上で、小さな野良猫みたいに暴れた気配。
目の前の女とは、どこか違う気もする。だが記憶は決して万全じゃない。
「では……藤原様のお考えは……?」
西原七海は探るように顔を上げる。
「責任は取る」
藤原英世は淡々と告げ、彼女を見据えた。
「君は、それを受け入れるか?」
その瞬間、西原七海は危うく息を忘れかけた。
藤原英世の恋人になる――それは上流階級の令嬢たちが夢見てやまない立場。藤原家の奥方という座。
欲しくないはずがない。
だが、今ここで藤原英世が問いかけている相手は、本来なら西原雨子であるはずだった。
もし西原雨子に知られたら――。
数秒の逡巡の末、西原七海は微笑みを崩さないまま口を開く。
「ひとつだけ……小さなお願いをしてもいいですか?」
