第4章

本物の西原家の令嬢なら、たかがひとつの業務提携さえ自分で決められないはずがない。

けれど幸い、西原海人は彼女を深く信頼していて、この案件に関する権限はすべて、早い段階で西原雨子へ委ねていた。

西原雨子はひとつ深く息を吸い、藤原英世へ返信する。

「私に決裁権があります」

それきり、向こうからは何も来なかった。

スマホを置いて眠るつもりだったのに、指先は勝手に藤原英世のSNSを開いていた。

本人をまともに見るのは怖い。けれど、SNSをこっそり覗くくらいなら――。

そう思ったのに、拍子抜けするほど何もない。

藤原英世のSNSは、がらんどうだった。

……

翌日。

西原雨子はプロジェクトチームの中核メンバーと荷物をまとめ、専用車で藤原グループへ向かう支度をしていた。

出発前、チームの面々がからかうように声を上げる。

「うわ、ボスについて藤原入りとか、完全に出世コースじゃん。これ、そのまま戻ってこないやつじゃないですか?」

車内でも笑いが起きた。

「ボスがいるなら俺らもいますよ」

「ボスが逃げたら、俺らも全力で逃げます!」

賑やかな冗談に包まれるなか、西原雨子だけはうまく笑えなかった。

このチームには、長く彼女についてきてくれた人が多い。

部下や同僚というだけではない。苦楽を共にしてきた仲間だった。

それなのに、自分は「偽物の令嬢」だ。

西原ではどうしても目立ちにくいし、派手に振る舞うこともできない。

彼らは自分についてきて、苦労も貧乏くじも真っ先に引くのに、最後にきちんと報われる者は多くない。

そのことを思うたび、胸が痛んだ。

今回、藤原へ移ることで自分にどれほど得があるかなんて、どうでもいい。

ただ、彼らが藤原に実力を認められて、もっといい機会を手にできるなら――そのほうがずっと嬉しかった。

車のドアが閉まる。

騒がしい笑い声を乗せたまま、一行は藤原グループへ向かった。

藤原グループ本社に着くと、研究センターの担当者が西原雨子たちを出迎えた。

眼鏡をかけた社員が、てきぱきと告げる。

「西原さん、皆さんは私が研究センターへご案内します。西原さんは43階で入社手続きをお願いします」

西原雨子は頷き、自分とチーム全員分の入社書類を抱えてロビーを抜け、エレベーター前へ向かった。

世界的にも名の知れた藤原の本社。

しかも、藤原英世がいる会社だ。

緊張を誤魔化すように、彼女は手元の書類を見直し始める。意識を別のところへ向けるために。

やがてエレベーターの扉が開いた。

西原雨子はすぐに足を踏み入れる。

階数ボタンを押そうとした、その瞬間。

隣から一本の腕が伸びてきて、ちょうど彼女の腕の上をかすめた。

同時に、鼻先をくすぐるのは、どこか覚えのある冷ややかな木の香り。

西原雨子ははっとして振り向く。

そこにあったのは、彫刻じみた端正な横顔――藤原英世だった。

もちろん藤原英世は、とっくに西原雨子に気づいていた。

エレベーターを待っているときから、彼女のすぐそばに立っていたのだ。

書類を読んでいるふりをして、まるまる1分もページをめくっていたことまで、しっかり見ていた。

「ひゃっ……!」

西原雨子の頭が真っ白になる。

短く声を上げた直後、反射的に後ずさりし、そのまま勢いよくエレベーターの壁にぶつかった。

とはいえ、箱の中は狭い。

どれだけ逃げても、二人の距離は近いままだ。

その瞬間、脳裏に蘇るのは、あの夜、ベッドの上で彼が漏らした低く押し殺した吐息。

耳に焼きついた、ひどく色っぽい声。

それだけで頬が一気に熱を帯び、真っ赤になる。

――なんで今、そんなことを思い出すのよ。

藤原英世はわずかに眉をひそめた。

自分を見た途端、まるで幽霊でも見たかのように飛び退いたかと思えば、そのあとで顔を真っ赤にする。

意味が分からない。

あまりにも妙だった。

彼は静かに西原雨子を観察する。

西原雨子はどうにか気持ちを立て直し、ぎこちないながらも礼儀正しい笑みを作った。

「藤原様。入社書類を提出しに参りました」

藤原英世は小さく頷くだけだった。

西原雨子が気まずさと緊張で何も言えずにいるうち、エレベーターが止まる。

彼女は表示を見上げた。

――自分の降りる階ではない。

それに気づくのと同時に、別のことにも気づいた。

エレベーターの中には、自分と藤原英世しかいない。

さっきまで、確かに何人も一緒に待っていたはずなのに。

そこでようやく理解する。

他の人たちは、藤原英世と同じエレベーターに乗る勇気がなかったのだ。

書類に気を取られていた自分だけが、それに気づかず一緒に乗ってしまった。

……でも、今度こそ藤原英世はここで降りるはず。

西原雨子は胸の内でそっと安堵した。

この密室には、彼の気配が濃すぎる。

まるであの夜のベッドの上みたいで、平常心が持たない。

早く降りて――。

けれど、彼女の予想に反して、藤原英世は動かなかった。

エレベーターはそのまま上昇を続け、ほどなくして43階に着く。

西原雨子がおそるおそる降りると、藤原英世もまた、そのあとに続いて外へ出た。

心臓が止まりそうになる。

――どういうこと?

――まさか、気づいたの?

「藤原様、あの……」

探るように口を開いた彼女を遮るように、藤原英世は淡々と言った。

「手続きが終わったら来い。仕事を振る」

それだけだった。

入社手続きを終えたあと、西原雨子は落ち着かない気持ちのまま、藤原英世に連れられてある部署の会議室へ向かった。

十数人ほどが揃ったところで、藤原英世は藤原側の技術チームに西原雨子を簡単に紹介する。

それから彼女へ視線を向けた。

「これから技術連携の案をすり合わせろ。適合上の問題が出たら、すぐに上げろ。対策を詰める」

言うだけ言って、藤原英世は脇の椅子を引き、どさりと腰を下ろした。

完全に場を西原雨子へ預けるつもりらしい。

西原雨子は目を丸くした。

初日から、いきなり藤原の技術チームと実務レベルのすり合わせ。

どう考えても、簡単な仕事じゃない。

――試されてる。

そうとしか思えなかった。

会議室の中、幾つもの視線が一斉に自分へ集まる。

普通の人間なら、この空気だけで口が利けなくなってもおかしくない。

ましてや効率よく連携の要件をまとめ、相手と噛み合わせていくなど、なおさらだ。

西原雨子は静かに息を吸う。

乱れかけた思考を一気に整え、藤原英世が同席しているという強烈な圧を押し返すように、平静を装って口を開いた。

「藤原の現行アーキテクチャについては事前に確認済みです。そのうえで、今回のプロジェクトと連携した際に、エコシステム全体で発生しうる問題をシミュレーションしました。大きく分けて、論点は2つあります」

そこで一拍置き、彼女は続ける。

「ひとつは、双方で異なる構造を採っているシステム同士の適合性。もうひとつは、各モジュールにおける最適化効率です」

その場にいたのは、いずれも技術畑の精鋭たちだった。

だからこそ、その数言で分かる。

この女は、単に技術が分かるだけではない。

論点の切り出し方も、整理の仕方も、言語化の精度も高い。

無駄がない。

一文ごとに、ちゃんと急所へ届いている。

もともと彼らは、他社の技術チームと組むと聞かされていたとき、少なからず懸念を抱いていた。

相手側のレベルが低ければ、自分たちの進行速度まで落とされると。

だが今、その不安はあっさり霧散した。

取り越し苦労だったのだ。

会議は順調に進み、西原雨子は藤原側の各モジュール責任者たちと初期の意思疎通を無事に終え、今後の進行方針も固めることができた。

藤原英世は終始、何も言わなかった。

ただ一人、脇に座ったまま西原雨子を見ていた。

緊張しているのは明らかだった。

声もわずかに震えている。

けれど、伝える力にも、受け答えの精度にも、破綻はない。

ここへ来る前から、相当きちんと準備していたのだろう。

反応も早い。

頭の回転も悪くない。

――だからこそ、藤原英世の疑念は深まった。

これだけの能力がある。

対人の受け答えにも問題はない。

それなのに、なぜ自分に対してだけ、あそこまで不自然に怯えるのか。

そこだけが、どうしても噛み合わなかった。

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