第5章
西原雨子に、コミュニケーション上の障害なんて一切ないらしい。
社交の場でも、能力の高さだけで軽々と切り抜けてしまう。
なのに――どうして、彼の前だと怯えたようになる?
西原家の令嬢として十数年。いわゆるお嬢様をやってきた女が、目の前に立たれただけで足がすくむなんて、筋が通らない。
いったい、何を怖がっている?
西原雨子は、藤原英世の視線が自分に落ちているのを感じた。USBをしまう指先が、緊張でわずかに震える。
もし藤原英世が、自分こそがあの夜の女だと知ったら――。
きっと即刻、会社から追い出される。
そのとき、プロジェクトは?
自分の下で動いているメンバーは?
雨子は顔を上げ、瞳の奥の恐慌と不安を飲み込み、丁寧に微笑んだ。
「藤原様、ほかにご用がなければ、先に研究開発センターへ戻ります」
――決めた。藤原グループでは、できる限り藤原英世を避ける。
幸い、入ったばかりで片付ける仕事は山ほどあるし、会うべき相手も多い。忙しくしていれば、彼だってわざわざ呼び止める理由がなくなるはずだ。
藤原英世が立ち上がる。
「……ああ。用があれば、また連絡する」
その一言が、雨子の胸をきゅっと締めつけた。
見上げたときには、藤原英世はもう会議室を出ていた。
雨子は乱れた呼吸を整え、研究開発センターの隣にあるL字型のオフィス棟へ向かう。
藤原グループは彼女のプロジェクトチームに、専用の部屋をひとつ割り当ててくれていた。扉を開けると、メンバーはすでに荷ほどきを終えている。
雨子が手招きする。
「みんな、集まって。軽く打ち合わせするよ」
栗色に染めた髪、透明フレームの眼鏡。小柄な少女が小声で報告した。
「雨子さん。監視カメラの増設とか、盗聴器みたいなものは今のところ見当たりません」
岡村宮子。雨子が学内の採用イベントで引っ張ってきた優秀な人材で、プライベートでも距離が近い子だ。
雨子は頷く。
すると、身長が高い男が不満げに言った。
「そこまで警戒する必要ある? 藤原みたいな大企業がさ、俺ら相手にせこい真似するかよ」
宮子がファイルで、周防悠介の頭をこつんと叩く。
「大企業ほど腹黒いんだよ。もし核心の開発データを抜かれたら、次の日には切られるんだから」
雨子は、その言葉に藤原英世の冷えた瞳を思い出す。
彼が卑劣な男だとは思わない。けれど、藤原グループという巨大な組織の内側を、彼女はまだ何も知らない。用心に越したことはない。
雨子は机を軽く叩いた。
「それじゃ、今日からの割り振り。まず――」
……
藤原グループ本社のエントランス。
艶のあるサテンのロングドレスに、低いブリムの帽子。刺繍の美しい袋を手にした女が、スマホを耳に当てた。
「着いたわ」
ほどなくして、藤原英世の特別補佐である加藤傑が自ら降りてきて、女をエレベーターへ案内する。
当然、周囲の視線が集まった。
「加藤助手だよな? 女連れて上がったぞ。客か?」
「商談の客があんな格好するわけないだろ。どう見ても令嬢か奥様だって」
「え、藤原様って彼女できたの? 帽子で顔見えねえ……」
「声でかい。藤原様の噂とか、明日クビだぞ」
――西原七海。
エレベーターが止まり、七海は加藤傑に上品に微笑んだ。
「加藤助手、お手数をおかけします」
「とんでもございません。藤原様は執務室にいらっしゃいます」
七海は執務室の方向を一度見やり、袋のファスナーを開けて弁当箱を取り出す。眉を寄せ、心配そうに呟いた。
「私の料理……口に合うかしら」
加藤傑はあくまで礼儀正しく笑う。
「心を込めたお弁当が、何よりでございます」
七海は知っている。自分の言動はすべて、加藤傑を通して藤原英世に届く。
芝居は徹底してこそ意味がある。相手が補佐役ひとりでも、油断はしない。
息をひとつ吸い込み、七海は扉を押し開けた。
西原雨子が藤原に来て二日。
この二日間、西原七海は落ち着かなかった。雨子が真実を口にしたら、すべて終わる。
雨子は虚栄の女じゃない。だが藤原英世は、権勢も容姿も体格も――男として反則級だ。
そんな男を前に、どんな女が心を動かさない? まして二人には、あの夜がある。
だから先に手を打つ。
精巧な弁当、完璧な身なりでの「差し入れ」。
彼女は藤原英世の恋人。これ以上に正当な理由はない。藤原英世は少し黙ったが、拒まなかった。
七海は聞き分けよく付け足す。
「私だって、あなたの迷惑にはなりたくないの。誰にも気づかれないようにするわ」
執務室に入り、七海はさりげなく周囲を見回した。
さすが藤原英世。自分が西原で使っていた部屋の十倍はある。装飾は最小限、極限まで無駄を削ぎ落とした統一感。
デスク脇の全面窓からは、K市随一の繁華な商業区が見下ろせた。有名企業の本社ビルが、林立している。
七海が料理を並べると、ふわりと香りが立つ。
藤原英世は二、三口見て言った。
「料理は上手いな」
七海は照れたように笑い、悪戯っぽく瞬きをする。
「口に合うか分からないし……先に食べてみて。不味かったらちゃんと言ってね。泣いたりしないから」
無垢な笑顔。温かな食事。柔らかな陽射し。
冷たかった執務室が、ほんの少しだけ「家庭」の匂いを帯びた。
藤原英世が食べ終えたのを見届け、七海はようやく息をつく。片づけを済ませると、従順に言った。
「じゃあ、私、帰るね……」
藤原英世は報告書に視線を戻し、七海の名残惜しげな眼差しには気づかない。
「……送ってくれないの?」
七海が、少し拗ねたように言った。
藤原英世が顔を上げる。
天真爛漫な瞳に見つめられ――沈黙。
……しばらくして、二人は並んでエレベーターへ向かった。
藤原様が、女と一緒に下りてくる。
それ、もはや公表と何が違うのか。
社内の非公開チャットが爆発する。
「藤原様が恋愛してるとか、世界の終わりだろ!」
その頃。1階ホールの曲がり角。
西原雨子は他部署との工程調整資料を抱え、顔を上げた。
少し先に、寄り添う二人の姿。
通り過ぎる社員が、声を潜めて囁く。
「藤原様、初めて恋人を公にしたよな。あんな堂々と……ガチだわ」
雨子は下唇を噛んだ。
藤原英世に恋人がいるなら、なおさらあの夜のことは隠さなければならない。
でなければ――自分は知らずに、最低の浮気相手になってしまう。
