第6章
西原七海を送り届けてから、藤原英世は執務室へ戻った。
彼女が今日わざわざ来た意図など、分からないはずがない。
大々的に姿を見せ、しかも自分に見送らせる。――主導権の誇示。牽制。目的は十分果たしただろう。
しかも七海は頭の切れる女だ。もっともらしい口実で、自分の小細工を「些細な気遣い」に見せかけてくる。
女のその程度の計算なんて、害はない。むしろ、少し可愛げにも見える。
だが藤原英世は、そこらの男とは違う。
胸の内は、相変わらず凪いだままだった。
……
午後。加藤傑が入室し、業界の他資本の最新動向を報告していく。
一通り終わり、加藤が退室しようとしたとき。
「待て」
藤原英世が呼び止めた。
「研究開発センターのほうはどうだ」
加藤は一瞬きょとんとする。
「え……特に問題は。すべて正常ですが……」
言いかけて、ようやく藤原が何を聞きたいのか悟った。
「西原雨子さんと彼女のチームは馴染むのが早いです。共同プロジェクトもすでに軌道に乗っていて、想定よりかなり効率が出ています」
藤原英世は小さく頷く。
「彼女が処理した資料を送れ。確認する」
加藤の胸がざわつく。慎重に探りを入れた。
「西原さんは、確かに滅多にいない人材です。技術も強いですし、総合力もあります。藤原様……引き抜きを?」
藤原グループほどの規模なら、一般職はどうにでもなる。だが、核になる技術者は別だ。
藤原英世が会社を継いだ当初、研究部門は統制が取れておらず、責任を背負える柱も少なかった。だからこそ彼は金をかけ、各所から高待遇で人材を集め、ようやく今の水準まで引き上げたのだ。
西原雨子のような伸びしろのある人材に目を留めても、不思議ではない。
「明日の会議だ。彼女も呼べ」
藤原英世は加藤の問いには答えず、命令だけを落とした。
……
翌日。
会議室に人が揃った。――が、西原雨子だけが来ない。
藤原英世は眉をわずかに寄せ、加藤を見る。
加藤は慌てて席を外し、電話を入れてから戻ってきた。
「今日は小崎翔のチームが新モデルのテスト日で……小崎が西原さんを呼んだそうです」
小崎翔。
藤原研究開発の要。傲岸不遜で、怖いもの知らず。藤原英世の決定にすら堂々と異を唱える男だ。
しかも、無駄に自尊心が高い。
藤原英世の知る限り、小崎が「丁寧に扱う相手」は片手もいない。――自分すら、その中に入っているか怪しい。
その小崎が、なぜ西原雨子を呼ぶ。
加藤は沈黙を「不機嫌」だと勘違いして取り繕う。
「金曜の夜に定例会があります。そのとき改めて呼びます。今回は……小崎に呼ばれて、断りづらかったんじゃないかと」
藤原英世はそれ以上何も言わず、会議はいつも通り進んだ。
……
金曜の夜。
満席の会議室を見渡し、藤原英世の眉間が再び寄る。
――西原雨子が、またいない。
加藤もさすがに異常だと察し、研究開発センターへ即座に連絡を入れた。戻ってきた顔は青い。
「西原さんからです。センサーモジュールの高温警報のフィードバックが不安定で……来週の進度に響くから、今すぐ対応すると」
藤原英世が眉を上げた。
つまり――また自分を後回しにした、と。
自分の指示より、データのほうが大事だと言うのか。
加藤は上司の表情を窺い、額に冷や汗が滲むのを感じた。
藤原英世の命令を、二度も軽んじた人間など見たことがない。
しかも前回、小崎翔の新モデルテストは小崎チームの仕事だ。西原雨子が呼ばれたとしても、協業側の人間なら断る理由などいくらでも作れる。
だが彼女は、小崎を選んだ。
そして今回も、藤原英世より「不安定なフィードバック」を選んだ。
会議は定刻通り始まり、藤原英世は平然と最後まで終えた。
それから、すっと立ち上がる。
加藤も追う。すると藤原英世は、研究開発センターの方向へ歩き出した。
「藤原様、西原さんは悪気があるわけでは……ただ仕事を優先しただけかと」
加藤は必死に言い訳を探す。
「俺が「故意だ」と言ったか」
藤原英世の声は冷たかった。
加藤は言葉を失う。
「……分かるだろ。お前も分かった。つまり故意だ」
藤原英世は低く嘲るように笑った。
加藤は内心で頭を抱える。
――西原さん、武運を祈ります。
二人が研究開発センター内、ある実験室の前に着くと、中から会話が漏れてきた。
「先に帰って。私、残って見るから。明日には解決できる」
白衣姿の西原雨子が、計器から目を離さずに言っている。声は落ち着いていて、集中の熱だけが滲んでいた。
「雨子さん、私も残る!」
甘えるような女子の声。
「いらない。いても手伝えないでしょ」
「でも、そばにいたいんだよ」
「来週はもっと忙しくなる。そのときいくらでも付き合える」
雨子が小さく笑う。
「ほら、帰って」
加藤がドア前で耳を澄ませていると、ふと横を見た。
――藤原英世がいない。
その瞬間、雨子のチームメンバーがぞろぞろと出てきて、加藤と鉢合わせる。
加藤は反射的に取り繕った。
「小崎翔を探してるんだが、いるか?」
「小崎さんなら、もう上がりましたけど……」
「そ、そうか。じゃあ」
加藤はそそくさとその場を離れた。
――藤原様、行くなら行くと言ってください……。
……
月曜。
退勤の打刻を終え、加藤が伸びをしたとき、スマホが震えた。
西原七海からのメッセージ。
『藤原様、最近お忙しい? 今週、時間ある?』
加藤は勝手に決められない。
『お忙しいです。確認して、時間が取れそうなら藤原様からご連絡がいくと思います』
丁寧に返すと、すぐ次が来た。
『妹が藤原に行って何日か経つけど、協業はどう? 迷惑かけてない?』
――妹に直接聞けばいいだろうに。
そう思っても、口には出さない。
『非常に順調です。藤原様も彼女の仕事ぶりには満足されています』
仕事ぶりは、確かに。
それ以外は――考えないほうがいい。
その返答に、七海の目がすっと陰った。
満足。どれほど――?
七海は深く息を吸い込む。
だめだ。進展が遅すぎる。
同じ会社で、しかも雨子が技術の要として評価され続けたら、藤原英世の視線がそちらへ向く。火花が散る前に、自分が先に距離を詰めなければ。
――藤原英世との関係を、今週中に動かす。
