第4章

 その見慣れた威厳ある顔を目にした瞬間、朝から必死に保っていた私の気丈さは脆くも崩れ去った。呆然と立ち尽くすボディガードを振り切り、よろめきながらその胸に飛び込んだ。

「お母さん……」

 言い終わるより早く、懐かしい温もりが私を包み込んでいた。

「私の由梨、遅くなってごめんなさいね」

 母は私をきつく抱きしめた。赤く腫れ上がり血の滲んだ頬をそっと撫で、その視線が下へと動く。踏みにじられた足首、引き裂かれたシャツの襟元——琥珀色の瞳の奥にあった痛ましい色は、一瞬にして全てを焼き尽くすほどの凄惨な怒りへと変貌した。

 先ほどまで傲慢に振る舞っていた社員たちは身を縮め、窓の外でホバリングする数機の大型ヘリコプターを見つめている。野火のように恐怖の囁きが広がっていった。

「嘘だろ……ヘリでガラス張りの壁をぶち破るなんて、一体どれほどの権力者だよ……」

「どんなに金持ちだって、H市で浜松家に喧嘩を売るなんて無理だろ? あそこはこの街の絶対的支配者なんだぞ!」

「そうよ、ここは浜松様のお膝元。あのババア、ただじゃ済まないわ」

 散乱した書類の山から這い上がった晴子は、乱れた髪を乱暴に掻き上げると、後ろに控える圭也の威光を笠に着て、ハイヒールを鳴らしながら真っ直ぐに私たちの鼻先までやってきた。

「あら、あなたが電話口で大口を叩いていたババアね!」

 彼女は腕を組み、悪意に満ちた侮蔑の視線を向けてきた。

「どうりでこのクズがつけ上がるわけだわ、親譲りってわけね! 娘を浜松家に押し込むためなら旦那も捨てて、先代会長のベッドに自ら潜り込んだんでしょ? この親にしてこの子あり、骨の髄まで卑しい泥棒猫だこと!」

 私の襟元を直していた母の手がピタリと止まり、ゆっくりと振り返る。

 晴子は自身のスカートについたコーヒーの染みを指さし、さらに得意げに喚き散らした。

「いいことババア、のこのこやって来たからには、きっちり落とし前をつけてもらうわよ! お前の娘、私の八千万円のオートクチュールを汚した挙句、私に手を上げたのよ! 今日、五体満足でこのビルを出たければ、私の三つの条件を飲みなさい——」

 彼女はツンと顎を跳ね上げた。

「第一に、精神的苦痛の慰謝料として八億円払うこと! 第二に、こいつが私をぶったのと同じように、十倍、百倍にしてその顔をビンタしてやる! 第三に、今すぐこの場で圭也との婚約を破棄しなさい! これに従うなら、今日だけは特別に慈悲をかけて、その薄汚い命を拾ってあげるわ!」

 それを最後まで聞き終えると、母は低く笑い声を漏らした。

 それは極寒の氷河に走る亀裂のように、凍てつくような笑みだった。真っ黒な本革の手袋を外し、背後のボディガードに無造作に投げ渡すと、母は私を安心させるように背中をポンポンと叩いた。

「由梨、よく見ておきなさい。身の程知らずの畜生に、道理を説く必要なんてないのよ」

「あんたに言われずとも、こんな婚約は絶対に破棄よ」

 母は一歩、また一歩と晴子へ歩み寄り、冷ややかな視線で射抜いた。

「圭也みたいなあの役立たずに、うちの娘の靴を磨く資格すらあるわけないじゃない」

 晴子が本能的に半歩後ずさる。

「圭也を役立たず呼ばわりしたわね!? お前ごときが——」

 凄まじい勢いで放たれた平手が、晴子の左頬を痛打した。ゴシッという鈍い音と共に、晴子の口と鼻から鮮血が噴き出す。

「その他の条件についてだけど」

 母は地に這う彼女を見下ろし、冷酷に言い放った。

「今日、ここで教えてあげるわ。このビルから出られないのは、あんたたちの方よ!」

「あああっ——私の顔が!」

 赤く腫れ上がった顔を押さえ、晴子は床でヒステリックに泣き喚いた。

「圭也! このクソババアを殺して!!」

 ずっと冷ややかに静観していた圭也も、ついに堪忍袋の緒が切れた。額に青筋を浮かべ、怒号を飛ばす。

「警備員! ボディガード! この狂った女と由梨をまとめて地下室に放り込め!」

 数十名の警備員と私兵のボディガードたちが、飢えた狼のように襲いかかってきた。

「死に急ぐとはね」

 母は鼻で笑った。

 同行していたボディガードたちは、銃を抜くことすらしない。幾筋もの残像が閃き、鈍い打撃音と骨の砕ける音が立て続けに響き渡った。瞬きする間に、圭也が誇る数十名のボディガードは全員手足をへし折られ、阿鼻叫喚の声を上げて床に転がっていた。オフィスフロアは、瞬く間にこの世の地獄と化した。

 圭也は完全に硬直した。その瞳に本物の恐怖が走る。後ずさりしようとした矢先、大柄なボディガードが鬼神のごとき速さで距離を詰め、その膝裏を蹴り折り、両腕を背後にねじり上げて床に押さえつけた。

 グループ社長である圭也は、ガラスの破片が散乱する床に両膝を激しく打ち付けられ、極めて屈辱的な姿勢で私たちの前に跪かされた。

「離せ——俺を誰だと思っている!」

 彼は激痛に顔を歪ませながら必死にもがき、母を恐ろしい形相で睨みつけた。

「俺は浜松グループの社長だぞ! H市の未来の支配者だ! 俺に手を出して、お前ら一族が五体満足で死ねると思うなよ!!」

 その言葉に対する返答は、容赦のない乾いたビンタの音だった。

「この一発は、見る目も聞く耳も持たず、悪人に加担した罰よ!」

 母は裏拳でさらにもう一発、彼の右頬を思い切り張り飛ばした。

「この一発は、恩を仇で返し、私の娘を辱めた罰!」

 母は圭也の髪をわし掴みにし、血まみれの顔を強引に上げさせた。私の全身の傷に視線を走らせ、その声には明確な殺意が滲んでいた。

「私はね、この子が小さい頃から、指一本だって触れるのを惜しんできたのよ。お前らごときが、私の目の前でこの子にこんな屈辱を味わわせるとは、いい度胸じゃない」

 母は身をかがめ、ドスを効かせた声で囁く。

「教えてあげるわ、圭也。お前みたいな役立たずが喚こうが知ったことじゃない。今日、実の父親である信人がここに立っていようと、あいつが私の娘に指一本でも触れるなら、同じように張り飛ばしてやるわ!!」

 野次馬の中から、震えるような泣き声が漏れた。

「終わりだ……信人会長の唯一の跡取りに手を出した……これで両家は骨肉の争いになるぞ。あの女、今夜の命はない……」

 だが、母にはそんな声など聞こえていないようだった。ゴミでも捨てるかのように圭也の髪から手を放すと、コートのポケットから純白のハンカチを取り出し、振り返って私の口元の血を優しく拭ってくれた。

「由梨、もう怖がらないで」

「お母さんが付いているわ。あなたを苦しませた奴らには、十倍、百倍にして思い切りやり返しなさい。たとえ天が落ちてこようと、お母さんが全部受け止めてあげるから」

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