第1章

「膝の靱帯がかなりひどく損傷しています。あと少し処置が遅れていたら、後遺症が残ってもおかしくなかったですよ」

病室で医師は眼鏡を押し上げ、ひとりで座る沈川澪をぐるりと見回して眉をひそめた。

「お一人ですか? ご家族の付き添いは」

沈川澪は伏し目がちに答える。

「……いません」

医師はカルテの『既婚』の文字にちらりと目をやり、やりきれないように息を吐くと、淡々と処方箋を出した。

沈川澪は薬の紙を握りしめ、左脚にぐるぐると厚い包帯を巻いたまま、足を引きずりながら入院棟を出た。

そのとき、スマホが鳴った。藤原司からだ。

沈川澪は深く息を吸い込み、通話を取る。

「祖母が、今夜は戻って食事しろと」受話口から聞こえる声は、いつもどおり冷淡だった。「どこにいる?」

「病院よ」沈川澪はできるだけ平静を装う。「午後に軽い事故に遭って。膝を少し怪我したの」

向こうが二秒ほど沈黙する。

「……ひどいのか?」

「ひどくないわ」沈川澪は唇を噛み締めた。「すぐ帰るから」

切ろうとした瞬間、受話口の奥から騒がしい声が割り込んだ。

『おい藤原、電話してる場合じゃないぞ! 負けたんだから罰ゲームだ! 早く月乃にキスしろよ!』

沈川澪の胸がきゅっと縮む。月乃――朝倉月乃?

帰国したの?

藤原司に昔、幼なじみの恋人がいたことを、沈川澪は結婚してから知った。

雑音の中で、藤原司がくすりと笑うのが聞こえた。

「安心しろ」

そして沈川澪へ、まるで事務連絡のように言った。

「大した怪我じゃないなら、早めに帰れ」

通話はそこで切れた。

沈川澪は片脚を引きずりながら道端へ出て、タクシーを拾う。

藤原家の邸宅に戻ると、藤原司の祖母である藤原清子が駆け寄ってきた。沈川澪の脚を見るなり顔色を変え、慌てて支える。

「澪、その脚……どうしたの?」

「転んだだけです。大丈夫ですよ」

心配をかけたくなくて、沈川澪はとっさに嘘をついた。

藤原清子は信じていない目だった。

「転んだだけでこんなになる? 司は? どうして一緒じゃないの」

藤原司の名が出た途端、沈川澪の表情に影が落ちる。

藤原清子はそれだけで察したらしく、沈川澪が嫁いできてからの数年、藤原司がどんな態度をとってきたか、彼女が一番よく分かっている。

藤原清子は苛立たしげに言った。

「司ったらまったく……今すぐ電話して戻させるわ!」

そう言って、スマホに手を伸ばしかけた。

沈川澪は慌ててその腕を止めた。

「お祖母様、いいんです。朝倉月乃さんが戻ってきたので、彼、今忙しいから」

朝倉月乃の名に、藤原清子の手が宙で止まる。次に沈川澪へ向けられた視線には、憐れみが混じっていた。

「澪……この数年、苦労をかけたわね。安心しなさい。司が戻ったら、お婆ちゃんがちゃんと叱ってやるから」

沈川澪は笑って、何も言わなかった。

――三年前。沈川澪は療養施設でボランティアをしていて、藤原清子と出会った。

当時はまだ大学生。藤原清子は穏やかでおしゃべりで、自然と親しくなった。

藤原清子は沈川澪を気に入り、手を握ってはよく言った。

「こんな子が孫の嫁なら最高なのにねぇ」

やがて藤原司が見舞いに来て、沈川澪は初めて彼を見た。冷たく整った顔立ち、どこか憂いを帯びた雰囲気――沈川澪は一瞬で目を奪われた。

藤原清子はそれを見抜いて、さりげなく二人を近づけた。

藤原司も拒まなかったため、流れのままに結婚した。

けれど沈川澪は知らなかった。藤原司が彼女を娶ったのは、朝倉月乃への意地と当てつけだったことを。

ある宴席で、沈川澪は彼の友人の声を耳にした。

「藤原、月乃を怒らせるためにって、他の女とそんな雑に結婚するのはよくないだろ」

藤原司は何も言わず、ただ目の奥に複雑な色を滲ませていた。

沈川澪の胸は、その瞬間、無数の針で貫かれたみたいに痛んだ。

――彼女は、妥協の産物にすぎなかったのだ。

夜九時になっても、藤原司は帰ってこなかった。電話をすると「会社が忙しい」の一点張り。

食卓いっぱいの料理を見て、藤原清子の顔に不安が浮かぶ。

「司ったら……いくら忙しくても食事ぐらい……」

沈川澪は心配をかけまいと、皿を片づけながら言った。

「お祖母様、私が会社まで何か持っていきますね」

藤原清子の視線が沈川澪の顔から、怪我をした脚へと移る。痛ましげに彼女の手を叩いた。

「悪いわね……」

「大丈夫ですよ、お祖母様」沈川澪は小さく笑った。

藤原清子は沈川澪の手を握り、重く言った。

「澪。お婆ちゃんが認める嫁は、あなただけよ。朝倉月乃がどう騒ごうと気にしないで。司が少しでもあなたにひどいことをしたら、お婆ちゃんが絶対に許さないから」

沈川澪は何も言わず、ただ小さく頷くだけだった。

三十分後。保温容器を提げ、藤原グループ本社へ。

膝はじくじく痛み、一歩ごとに針で刺されるようだったが、沈川澪は耐えて藤原司の執務室へ向かった。

ノックしようとしたとき、室内から笑い声が漏れた。

女の笑い声。澄んで、甘えるようで。

沈川澪の手が空中で固まる。

扉の隙間から覗くと、藤原司は大きなデスクの奥。向かいのソファに朝倉月乃が座り、赤ワインを片手に艶やかな目で彼を見上げている。

二人きり。空気はひどく親密だった。

「司、覚えてる? 大学のとき」朝倉月乃が微笑む。「私の誕生日に、ケーキ買いに塀を乗り越えて、警備員に三本先の通りまで追いかけられたの」

藤原司が低く笑う。

「ああ、覚えてる」

朝倉月乃の声は柔らかい。

「ね。あの頃はよかった……何も考えなくてよくて、一緒にいるだけで幸せだった」

沈川澪は扉の外で息を呑み、指が震えた。

次の瞬間――

手から保温容器が滑り落ち、床に落ちた。

音に気づき、二人が振り返る。

そこに立っていたのは、包帯の脚を引きずる沈川澪だった。

「どうして来た」藤原司は沈川澪の包帯を見て眉をつり上げた。「小さな怪我じゃなかったのか。そこまで大袈裟に巻く必要ある?」

「あなたが澪ね? 朝倉月乃。司の友達よ」

朝倉月乃は藤原司のそばへ寄り、肩を軽く叩いて柔らかな声で言う。

「司、ひどい言い方。澪、怪我してるんだから、支えてあげなきゃ」

沈川澪は朝倉月乃を見た。落ち着いた所作、上品で堂々とした立ち姿。惨めな自分とは、まるで住む世界が違う。

藤原司がこれほど惹かれるのも無理はない。

藤原司が沈川澪へ歩み寄る。

そのとき沈川澪は、不意に見てしまった。

白いシャツの襟元――ネクタイに、鮮烈な口紅の跡。

血を含んだ薔薇みたいに目に痛い。

朝倉月乃の、あの色。

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