第4章

藤原司はサイン済みの離婚協議書を睨みつけた。こめかみがドクドクと脈打っている。

沈川澪の強気な一面を見たのは、これが初めてだった。

「ふん、大した度胸だ」

藤原司は自嘲気味に口角を上げると、その紙をくしゃくしゃに丸め、ゴミ箱へ思い切り叩きつけた。

胸の奥に得体の知れない苛立ちが閊え、吐き出すことも飲み込むこともできない。

結婚して三年。沈川澪は彼に対して常に従順で、どこか卑屈なほど顔色を窺っていた。

彼の好みをすべて把握し、帰りが遅い夜は必ず明かりをつけて待ち、病気のときは片時も離れず看病した。

彼は彼女の存在に慣れきっていた。まるで呼吸をするのと同じくらい当たり前に。

だが今、永遠に離れていかないと思っていたその女が、家を出たばかりか、すべての連絡先をブロックして消え去ったのだ。

藤原司は苛立たしげにネクタイを緩め、アシスタントに電話をかけた。その声は氷のように冷たい。

「沈川澪の居場所を調べろ。今すぐだ」

通話を切り、彼はがらんとした邸宅の中を歩き回った。沈川澪が暮らしていた痕跡は至る所にある。ソファのクッション、玄関にある彼女のルームシューズ、そして空気中に微かに残る、彼女の甘い香りまで。

見慣れたはずのそんな些細なものが、今は一本一本の細い針となって、彼の心をちくちくと刺して乱した。

沈川澪を愛しているなどと思ったことは一度もない。二人の結婚はただの意地から始まったものだ。自分が彼女に与えたのは、藤原家の妻という肩書きと、衣食に困らない生活だけだと思っていた。

けれど彼女が本当にいなくなって初めて、胸のどこかがぽっかりと空いてしまったような感覚に襲われていた。

翌朝。アシスタントからの報告より先に、藤原清子から電話がかかってきた。

「司、澪はどうしたの? 電話が繋がらないんだけど」藤原清子の声には心配が滲んでいる。

藤原司は眉間を揉み、言葉を濁した。

「あいつは……実家に帰ってる」

「嘘をおつき!」藤原清子の声が鋭く跳ね上がった。「さっきあちらのお義母さんに電話したのよ。澪なんて帰ってないって! またあの子をいじめたんじゃないの? 朝倉月乃が戻ってきた途端に心ここにあらずで……澪のことを何だと思ってるの」

藤原司は言葉に詰まり、痛いほどの沈黙が落ちた。

電話の向こうで藤原清子がため息をつく。その口調は沈痛だった。

「司、私は本当にあなたを見損なったわ。澪があなたに嫁ぐために、私とどんな約束をしたか知ってるの?」

「……何の話だ?」藤原司は反射的に問い返した。

「あの子はね、私と念書を交わしたの。藤原家の財産相続権を自ら放棄し、たとえ離婚することになっても慰謝料も財産分与も一切受け取らないって。当時はあの子の覚悟を試すつもりだったのに、澪は瞬き一つせずにサインしたわ」藤原清子の声がわずかに震える。「あんなにいい子を、あなたはちっとも大事にしないなんて……」

そのあとの言葉は、もう藤原司の耳には入らなかった。

頭の中には『念書』『一切受け取らない』という言葉だけが響いている。

――そういうことか。

ふと腑に落ちたように、彼の瞳の奥にあった焦燥と動揺が、一瞬にして氷のような嘲笑へと変わった。

まったく、見くびっていた。

金目当てじゃないだの、身一つで出て行くだの、全部お祖母様に見せるための芝居だ。気を引くための小細工にすぎない。

お祖母様が自分を可愛がっていることを熟知した上で、あの念書にサインし、お祖母様の歓心を買うと同時に藤原家での地位を盤石にしたのだ。

そして今、朝倉月乃が戻ってきて自分の立場が危ういと感じるや、離婚をちらつかせて脅しをかけてきた。家出までして、お祖母様から自分へ圧力をかけさせるために。

見事な立ち回りだ。

藤原司の目から最後の温度が消え失せた。彼は冷たく鼻で笑う。この三年の従順で大人しい姿は、すべて作り物だったというわけか。

沈川澪、大したものだ。

同じ頃。西新宿にあるマンションの一室。

沈川澪は青白い顔でソファにもたれていた。親友の神谷玲奈が甘い飲み物を入れたマグカップを彼女の前に置き、もどかしそうにその額を小突く。

「沈川澪、あんたって子は! 脚がそんな状態なのに、一人でスーツケース引きずって出てくるなんて。藤原司のクズ男はどうしたのよ? あんたがどうなろうと知ったこっちゃないってわけ?」

沈川澪は力なく微笑んだ。

「玲奈、私、彼とはもう離婚するの」

「大賛成!」神谷玲奈は憤然と言い放つ。「あんな男、さっさと別れるに限るわよ。安心して、これからは私が養ってあげるから!」

自分のために怒ってくれる親友の姿に、沈川澪の胸が温かくなる。ここ数日の悔しさと疲労がようやく吐き出し口を見つけたように、目頭が熱くなり、危うく涙がこぼれそうになった。

その夜。沈川澪は膝の怪我が痛み出し、一晩中ろくに眠れなかった。翌朝にはひどい高熱を出してしまった。

慌てた神谷玲奈は、有無を言わさず彼女を近くの病院へ連れ込んだ。

救急外来で診察を終えた医師は、眉をひそめて言った。

「膝の靱帯断裂に加えて、細菌感染による炎症も起こしています。どうしてここまで放っておいたんですか? すぐに入院して経過を見ますよ」

沈川澪は熱で朦朧としたまま、病室へ運ばれた。

どれくらい経っただろうか。額に冷たい感触を覚え、ゆっくりと目を開けると、穏やかで知的な顔立ちが視界に入った。

「神崎先輩?」沈川澪は少し驚いた。

目の前の男は神崎湊。大学時代のサークルの先輩であり、この病院の医師でもあった。

神崎湊は濡れタオルを水に浸して絞り直し、彼女の額にのせると、優しい声でたしなめた。

「自分の体もまともに労われないのか? 神谷から連絡がなかったら、このまま無理して耐えるつもりだったんだろ」

沈川澪はばつが悪そうに笑う。

「ちょっとした怪我だと思ってたので」

「今後は絶対禁止だ」神崎湊の口調には、有無を言わせない優しさがあった。「しっかり休んで。何かあればナースコールで俺を呼ぶように」

そのまま言葉を交わすうち、神崎湊が大学時代の笑い話を振ったことで、沈川澪の青白い顔にようやくわずかな笑みが浮かんだ。

だがその頃、病室の入り口では。

藤原司は病院のシステムからようやく沈川澪の入院情報を突き止め、腹の底で煮えくり返る怒りを抑えながら駆けつけていた。そして目にしたのが、その和気藹々とした光景だった。

沈川澪はベッドに横たわり、やつれた顔をしながらも目元を和ませて、枕元の男を見上げている。

白衣を着たその男は、背筋がすっと伸び、穏やかな雰囲気を纏っていた。うつむいて彼女を見つめる瞳からは、溢れんばかりの気遣いが滲み出ている。

二人は親しげに笑い合い、他人が入り込む隙など微塵もなかった。

藤原司の足は、そこでぴたりと凍りついた。

脳裏に、あの財産放棄の念書が一瞬にしてフラッシュバックする。

――なんだ。気を引くための駆け引きなどではなかったのだ。

とっくに次の男を見つけていたというわけか。

前のチャプター
次のチャプター