第6章
彼にとって、彼女のこれまでの意地も、最後の尊厳も、離婚を突きつけた決意すらも、すべては金目当ての駆け引きに過ぎなかったのだ。
喉の奥に鉄の味が込み上げたが、彼女は笑った。その笑みは青白く凄然としていて、まるで冬の日に散りゆく最後の一葉のようだった。
「藤原司」彼女は静かに口を開いた。自分のものとは思えないほど掠れた声だった。「安心して。私、何もいらないから」
そう言い残し、もう彼を見ようともせず、ベッドの縁に手をついて身を起こそうとする。
生気を失った瞳で見つめられ、藤原司は胸の奥が詰まるような感覚を覚えた。その空虚な眼差しが、彼をひどく苛立たせる。
無意識に手を伸ばして支えようとしたが、沈川澪はためらいなくその手を振り払った。
その動作には、すべてを断ち切るような決絶さが込められていた。
藤原司の手は宙で固まり、その顔は今にも黒い雫が滴り落ちそうなほど険しく沈み込んだ。
数日後。藤原司が執務室で書類に目を通していると、アシスタントが複雑な面持ちで一通の郵便物を運んできた。
差出人は、沈川澪。
封を切ると、中から真新しい離婚協議書が滑り落ちた。
条件は簡潔だった。妻である沈川澪は、婚姻中の共有財産に対する一切の分与を放棄し、身一つで家を出るというもの。
最後のページには、流麗でありながらも迷いのない筆致で彼女の署名があった。そこにはもう、一欠片の未練も感じられない。
その署名を睨みつける藤原司の、こめかみがドクドクと脈打つ。まるで神経を力任せに引きちぎられているかのようだった。
本来なら安堵するはずだった。この厄介な女が、ようやく自分の世界から完全に消え去ってくれるのだから。
それなのに、胸の奥に水を含んだ綿を詰め込まれたように息苦しい。
苛立たしげに協議書をデスクへ投げ捨てる。だが、紙はひらひらと滑り落ち、彼の足元に止まった。まるで声なき嘲笑のように。
サインさえすれば、すべてが終わる。
しかし、ペンを握る指の関節が白くなるほど力を込めても、どうしても書き入れることができなかった。
そこへアシスタントが報告のためノックして入ってきた。だが、彼の陰鬱な顔色と床に落ちた書類を見て、息を呑んで立ちすくむ。
「出て行け!」藤原司は低く吠えた。
その日の午後、社長室は凍りつくような低気圧に包まれていた。
夕方、予想通り藤原清子から電話がかかってきた。有無を言わさぬ命令口調だった。
「お前、澪をどこへやったんだい? いいかい、今日あの子を連れて帰ってこないなら、お前なんて孫はいないものと思うからね!」
「お祖母様……」
「お祖母様と呼ぶんじゃない!」藤原清子の声には深い失望が滲んでいた。「司、お前には本当にがっかりだよ」
電話は一方的に切られた。ツーツーという無機質な音を聞きながら、藤原司の強張った顎のラインはさらに険しさを増した。
彼は車のキーを掴み、病院へと車を走らせた。
彼女に帰ってきてほしいと頼みに行くわけじゃない。ただ、祖母に心配をかけたくないだけだ。そうだ、それだけのことだ。
病院に着くと、沈川澪はすでに退院手続きを終えていた。親友の神谷玲奈に支えられ、帰ろうとしているところだった。
藤原司の姿を認めるなり、神谷玲奈は沈川澪を庇うように前に立ちふさがり、彼を睨みつけた。
「藤原司、何しに来たのよ? 澪をこれ以上苦しめないと気が済まないわけ?」
藤原司は彼女を完全に無視し、沈川澪へと視線を向けた。
質素なワンピースに着替えた彼女は相変わらず顔色が悪く、その体つきはさらに細く見え、風が吹けば倒れてしまいそうだった。
「お祖母様は体が弱い。刺激を与えたくない」藤原司は感情の読めない声で言った。「一緒に戻ってこいと言っている」
沈川澪は顔を上げ、静かに彼を見つめ返した。その瞳には一滴の波紋もない。
「離婚協議書、届いたでしょう。サインしてくれれば、私たちもう無関係よ。お祖母様には、私から直接説明するわ」
「説明だと?」藤原司は冷笑し、一歩踏み出して彼女に詰め寄った。「どう説明するつもりだ? 朝倉月乃が戻ってきたから離婚するって言うのか? それとも、すでに次の男を見つけていて、新しい生活に飛び込みたくてたまらないとでも言うつもりか?」
毒を塗った刃のような言葉に、神谷玲奈は怒りで震え、言い返そうとしたが、沈川澪がそれを引き止めた。
沈川澪は藤原司を見つめ、ふと哀れに思えた。
彼女は小さく頷いた。
「わかったわ。一緒に戻る」
お祖母様の顔に免じて、これ以上心配をかけたくなかった。
「でも、これはあくまで一時的なものよ」彼女の声は細かったが、異常なほど毅然としていた。「離婚協議書には早くサインして。円満に別れましょう」
藤原司は彼女を深く見据えた。その瞳の奥には底知れぬ暗い色が渦巻いている。胸の奥で怒りの炎がさらに勢いを増した。円満に別れる? よくもそんなに簡単に言えたものだ。
彼はふと嘲るような笑みを浮かべ、すべてを掌握しているかのような傲慢な口調で言った。
「いいだろう。お前がお祖母様を説得して、悲しませることなく離婚に同意させられるなら、すぐにでもサインしてやる」
彼は厄介事をまた彼女に投げ返した。
沈川澪の祖母への思い入れを考えれば、絶対にそんな真似はできないと分かっていた。
車は夜の道を疾走し、やがて藤原家の本邸の前に止まった。
藤原清子はとうに玄関先で待っていた。沈川澪を見るなり、痛ましそうに駆け寄って彼女を支え、濁った瞳に涙を浮かべた。
「澪……つらい思いをさせたね」
老人の手の温もりを感じ、沈川澪は鼻の奥がツンとしたが、必死に涙をこらえた。
夕食後、藤原清子は有無を言わさず二人を二階の寝室へ向かわせた。そして、自分が『安心』するまでは必ずこの本邸に留まるよう厳命した。
寝室は彼らが家を出た時のままだった。空気には、懐かしくもよそよそしい匂いが漂っている。
藤原司がジャケットを脱ぎ、いつものようにソファへ放り投げて振り返ると、沈川澪がクローゼットから予備の布団と枕を抱え出していた。
「何をしてる」彼は眉をひそめた。
「私はソファで寝るわ」沈川澪の口調はひどく淡々としていた。
そう言って、彼女は布団を抱えたまま歩き出そうとした。
藤原司は彼女の手首を力任せに掴んだ。骨が砕けそうなほどの強さだった。
「沈川澪、どこまで意地を張れば気が済むんだ?」
彼の脳裏に、あの日病院で目にした光景が制御不能なほど鮮明に蘇る。
ベッドに横たわる彼女が、神崎湊というあの男を見上げて笑っていた。目元を細め、彼が今まで一度も見たことのないような優しさと甘えを浮かべて。
その光景が一本の棘となって彼の胸の奥深くに突き刺さっていた。今、彼女の冷淡な態度に刺激され、それが一気に燎原の火のごとき怒りへと変わる。
彼は彼女を引き戻し、ドアに押し付けた。その長身が、彼女の体を完全に覆い隠す。
沈川澪は痛みで顔を歪め、もがいた。
「離して!」
「離せだと? あの医者のところへ行かせるためか?」藤原司の荒い息が彼女の顔にかかる。そこには彼自身すら気づいていない嫉妬が混じっていた。「見くびっていたよ、沈川澪。こんなに早く次の逃げ道を用意していたとはな」
沈川澪は呆然とし、すぐに彼が神崎先輩のことを言っているのだと悟った。
あまりの理不尽さに、背筋が凍るような失望感が押し寄せてくる。
彼女は弁解する気すら起きず、ただ疲労しきった目で彼を見た。
「あなた、一体どうしたいの?」
彼女が言い訳をしないことは、藤原司にとって暗黙の肯定に他ならなかった。
彼の瞳の奥で怒りの炎がさらに燃え上がり、彼女の顎を掴む手にじわじわと力がこもる。歯を食いしばるようにして、一言一言を絞り出した。
「沈川澪、正直に答えろ。外で別の男を作ったのか?」
