第2章
何かが、燃えている。
……待って。違う。また脳が、記憶の断片をごちゃ混ぜにしているだけ。
私が見つめているのは、無機質な病院の天井タイル。この空間は消毒液と悲しみの匂いで満ちているというのに、どういうわけか私の肺は、未だに「煙」の幻影を吸い込み続けている。
喉が、まるで砕けたガラスを飲み込んだかのようにひりついた。
ドアが静かに開き、白衣姿の女性がタブレットを手に部屋に入ってきた。
「こんにちは、桜井乙美さん。呼吸器内科の松永です」
彼女はベッド脇の椅子に腰を下ろす。その事務的な表情だけで、私が心のどこかで期待していた「全く問題ありません、今日にでも退院できますよ」という言葉は聞けないのだと悟ってしまった。
「まず、良い知らせからお伝えします。肺の機能は、いずれ回復します」
松永医師はそこで一呼吸置き、続けた。
「そして、あまり良くない知らせですが……おそらく、慢性的な呼吸器系の問題が残るでしょう。喘息や、肺活量の低下。当面は、激しい運動は避ける必要があります」
「『当面』というのは、具体的にどのくらいですか?」
「数ヶ月で済むかもしれませんし、もっと長引く可能性もあります」
そこへ看護師が書類を手に現れる。
「保険の情報についてですが」
私は無意識に「桜井家です」と答え、それから口ごもった。
『私、まだこの名前を名乗って、いいんだろうか』
松永医師が去ると、病室には規則的な電子音を鳴らす機械と、私の思考だけが取り残された。
午後三時きっかりに、母と父がやってきた。滞在時間は三十二分。時計を見ていたから、間違いない。
その三十二分間のほとんどは、星奈の話に費やされた。
「可哀想に、星奈ちゃん、昨日の夜はほとんど眠れなかったのよ」
母は椅子に腰を下ろしたものの、ハンドバッグは膝に置いたまま。いつでもここを飛び出せる、という意思表示のようだった。
「あの子、もう家は本当に安全なのかって、何度も何度も訊いてくるの」
『私もほとんど眠れていないんだけど、まあいいか』、そんな言葉は声にならなかった。
「星奈のためにカウンセリングを受けさせることも考えているんだ。新しい家族になって最初の週に、こんなことになるなんて……」
父は落ち着きなく窓際を行ったり来たりしている。
私が自身の呼吸の問題について話すと、母は気のない様子で私の手にぽん、と軽く触れた。
「あら、あなたはずっと強い子だったじゃない。きっと大丈夫よ」
『ずっと強い子だから』。まるでその強さが、傷ついた肺を魔法のように治してくれる万能薬か何かだとでも言うように。
「明日、保険会社の担当者が来るそうだ」と、父が言った。「被害はかなり大きいらしい。数週間はホテル暮らしになるかもしれないな」
「私は?」と、私は訊ねた。
間があった。ほんの一瞬。でも、私はその沈黙の重みを、聞き逃さなかった。
「もちろん、あなたにも療養する場所が必要になるわ」
母が早口で言った。
「何とかするから、心配しないで」
二度目の見舞いは、空気がまるで違っていた。
午後にやってきたのは、星奈と陸だった。星奈は病室に入ってくるなりずっとスマートフォンをいじっていて、心底ここ以外の場所にいたい、という顔を隠そうともしない。
陸は、努めて普通の会話をしようとしてくれた。
「で、姉ちゃんはいつ退院できるの?」
その時、星奈がスマートフォンから顔を上げた。
「あのさ、実は訊きたいことがあるんだけど……」
彼女はドアの方をちらりと見る。母と父が聞いていないか、確かめているようだった。
「私がいろいろ落ち着くまで、車、使わせてもらえないかな? こっち、まだ足がなくて不便でさ」
その厚かましさに、文字通り息が詰まった。今の私の肺の状況を考えれば、あまり良いことではない。
『彼女は私の車が欲しいんだ。私が煙でやられた肺で病院のベッドに寝ているっていうのに、この子は私の車が欲しいんだ』
「乙美も、しばらくは運転しないだろうし? 私も新しい仕事とか探しに行くのに、必要で」
私は彼女をじっと見つめた。私と知り合ってまだ一週間のこの子が、まるで十年年来の親友に頼み事でもするかのように、私の車を貸してくれと言っている。
「……考えておく」
それが、私に言える精一杯だった。
廊下で父と電話している母の声が、病室まで聞こえてくる。
「ええ、一時的に星奈ちゃんが乙美の車を使うのは、理にかなってると思うわ」
『一時的に』。そう、星奈に関する何一つ、永続的なはずはないのだから。そうでしょう?
七時ごろ、翔太が花束と、ひどく居心地の悪そうな空気をまとって現れた。
「よぉ、その……具合、どうだ?」
彼の視線は、私ではなく窓の外に向けられていた。
「焚き火を丸ごと吸い込んだみたいな気分。ねえ、翔太。あの時、救急隊の人に言ったことなんだけど……」
翔太の全身が、目に見えてこわばった。
「ショック状態だったんだよ、乙美。人って、パニックになると変なこと言うだろ」
「でも、本気だったの? 『本当の家族』がどうとかって話」
沈黙が、隣の病室の点滴が落ちる音まで聞こえるほど、長く、重く続く。
やがて、彼が絞り出すように口を開いた。
「俺たち二人とも、今起こってること全部を整理する時間が必要だと思う。火事のことも、DNAのことも……何もかも、あまりに急すぎる」
『整理する』。彼は一体何を整理するつもりなのだろう。私が桜井家の一員ではないと知った今、私と付き合い続ける価値があるかどうかを、吟味する必要があるということだろうか。
彼は私を「乙美」とは呼ばない。「会いたい」とも言わない。週末の予定を訊いても、「男友達と会うんだ」とだけ。そこには何の誘いも、「退院したら、一緒に……」という未来への言葉もなかった。
私が「会いたいな」と呟くと、彼は「ああ、この状況は誰にとっても辛いよな」と答えた。
『誰にとっても』。私個人にではなく。誰にとっても。
病室を出る前、彼は何か言い足したそうに一瞬だけ立ち止まった。ほんのわずかな間、彼が私を愛していたことを、私たちが共に過ごした二年という歳月を思い出してくれるかもしれない、と期待した。このことで、全てが変わる必要はないのだと、言ってくれるかもしれないと。
「じゃあな。元気で」
『元気で』。まるで、二度と会わない他人に言うみたいに。
面会時間が終わり、一人きりになった病室で、私はスマートフォンの画面をスクロールしていた。どうやら私は、自分自身を痛めつけるのが好きな性分らしい。
星奈が、インスタグラムのストーリーを投稿していた。
『新しい部屋に馴染んできた!』
そこに写っていたのは、かつての私のお気に入りの場所だった。窓際の、日当たりの良い読書スペース。去年、絵に夢中になっていた時にイーゼルを立てた場所。彼女は、私のフェアリーライトをエスニック調のタペストリーに替え、見たこともない観葉植物を部屋に持ち込んでいた。
コメント欄は、予想通りの言葉で溢れていた。
『本当の家族が見つかってよかったね!』
『最高の人生の始まりだね!』
私のフォロワーでさえ、もう私が「偽物」だと知っている。
母に電話をかけてみる。留守番電話サービスに繋がっただけだった。
父の番号は、話し中だった。
ようやく陸に繋がった。電話の向こうは、ひどく騒がしい。
「ごめん姉ちゃん、今ニトリで星奈の部屋の家具買うの手伝ってるんだ。後でかけ直してもいい?」
彼から電話がかかってくることは、二度となかった。
翌朝、冷たい現実がすぐそこまで迫ってきた。
病院の会計課が、私の退院書類にサインする人を必要としていた。「ご家族か、保護者の方にお願いします」と、ソーシャルワーカーは事務的に説明する。
私はベッドに座ったまま、自分がまだ桜井家の健康保険でカバーされているのかどうかさえ、知らないことに気づいた。もしDNA鑑定の結果が、何か公的な書類に影響を及ぼしていたら? もし私が、もう法的に彼らの扶養家族ではなかったとしたら?
『私が法的な家族じゃないなら、一体誰がこの書類にサインしてくれるの?』
夜勤明けの看護師、恵美さんが見回りに来た。彼女は、このフロアで一晩中、誰の付き添いもいない患者が私だけであることに気づいていた。
「あなたのところ、本当に複雑なご事情なのね。普通なら、こんな大変なことがあった後は、誰かがそばにいてくれるものだけど」
「……みんな、変化に順応するのに忙しいんです」
「まあね。でも、家族に大きな変化があった時、人は思っていたよりも多くの家族がいることに気づくこともあるのよ。自分の、本当の家族について、調べてみたことはある?」
その言葉で、何かが、カチリと音を立ててはまった。
『本当の家族』
星奈は、見つけられた。両腕を広げて歓迎してくれる家族に。彼女を自分たちの生活に溶け込ませようと、誰もが必死になっている。部屋を与えられ、家具を買い与えられ、気分はどうかと絶えず気遣ってくれる家族が、彼女にはいた。
『どこかに、十八年間も娘がいないことを寂しく思っている人たちがいるはずだ。燃え盛る建物に飛び込んで、私を真っ先に助け出してくれる人たちが』
『私が家に帰ってくるのを、ずっと、ずっと待っていてくれた人たちが』
私は天井のタイルをじっと見つめる。このめちゃくちゃな騒動が始まってから初めて、何かを「失っている」という感覚が、すうっと消えていくのを感じた。
『私がここにいる資格を証明する必要なんて、ないのかもしれない。私が本当にいるべき場所を、見つける必要があるだけなのかもしれない』
モニターが、隣で静かに電子音を鳴らしている。ほんの少しだけ、呼吸が楽になった気がした。
明日、私は本当の家族を探し始める。








