第3章 勝手な愚か者

秋月雫は、とても長い夢を見ていた。

 夢の前半は甘美だった。九条時夜への片思いがついに報われ、あの盛大な結婚式こそが最高の答えだったはずだ。

 しかし、場面は急転直下し、最後には九条時夜の冷酷無比な顔だけが脳裏に残った。

「いやっ!」

 秋月雫は叫び声を上げて飛び起きた。傍らにいた高杉蓮が驚いて反応する。

「雫、大丈夫か?」

 彼は秋月雫の体を気遣うように支えた。その声には罪悪感と自責の念が満ちていた。

 秋月雫は呆然と周囲を見回し、自分が病院の病室にいることに気づいて顔色を変えた。

「蓮兄さん、どうして病院に……まさか……」

 彼が乳癌のことを知ってしまったのではないか。

 そう聞こうとしたが、喉が痒くなり、激しい咳の発作に襲われた。

 高杉蓮はすぐに水を持ってきて、秋月雫の唇に当てた。

「まずは水を飲むんだ。お前、昔は低血糖なんてなかっただろう! あいつは一体どういう世話をしていたんだ?」

 話しているうちに、高杉蓮はまた怒り出したようだった。

 刑務所暮らしを経て、彼の気性は随分と荒くなってしまったようだ。

 秋月雫はきょとんとした。

「低血糖?」

 いつからそんな病気になったのだろう?

 高杉蓮は大真面目に答えた。

「医師がそう言っていた。低血糖で倒れたんだと。少しは落ち着いたか?」

 低血糖だと聞いて、秋月雫は胸を撫で下ろした。

 高杉蓮と上寺園長は数少ない家族だ。彼らに心配をかけたくない。

「だいぶ良くなったわ、蓮」

 秋月雫は意識を失う前に高杉蓮が言った言葉を思い出し、一体どういうことなのか聞きたかったが、どうしても切り出せなかった。

 高杉蓮は秋月雫の戸惑いを察し、優しく彼女の頭を撫でた。かつての頼りがいのある、穏やかな高杉蓮に戻ったかのようだった。

「雫、お前にもどうしようもない事情があるのはわかってる。さっきは興奮しすぎた。怖がらせて悪かったな」

 秋月雫は首を振り、目頭を熱くした。

 誰かに心配されるという感覚を、ずっと忘れていた気がする。

 感傷的な言葉が口をついて出そうになったが、高杉蓮が先に口を開いた。

「あの案件というのは、白川ゆら博士の名誉毀損の件か?」

 秋月雫は驚いた。

「蓮兄さん、どうしてそのことを?」

 高杉蓮の瞳の奥に、一瞬後ろめたさが走った。

 彼は咳払いをし、すぐに理由を並べた。

「上寺ママが教えてくれたんだ」

 秋月雫は疑わなかった。

 彼女は目を伏せ、苦笑する。

「そうね」

 答えを得た高杉蓮は、どこか焦っているようだった。

「雫、勝てる見込みはあるのか?」

 その質問は、秋月雫には奇妙に響いた。

 彼女は訝しげに高杉蓮を見つめた。

「蓮兄さん、この裁判の結果がそんなに気になるの?」

 高杉蓮は一瞬狼狽えた。

 しかしすぐに冷静さを取り戻し、何でもないように笑ってみせた。

「ただ、俺たちが育った養護施設を守るためには、この裁判に勝つしかないだろう?」

 確かにその通りだが、秋月雫は何かが引っかかった。

 沈黙する秋月雫を見て、高杉蓮は軽く溜息をつき、寂しげな表情を見せた。

「もう一つ理由がある。俺自身、無実の罪で三年間も牢屋に入れられた。他の誰かが俺と同じように、汚名を着せられるのを見たくないんだ」

 その口調はあまりに真摯で、秋月雫は胸が痛んだ。

 彼に伝えたかった。白川ゆらは汚名を着せられたわけではなく、あの噂はすべて事実なのだと。

 だが、高杉蓮の熱く優しい眼差しを前にして、秋月雫は口を閉ざした。

 自分の惨めな結婚生活を、同じように多くの苦しみを味わってきた高杉蓮に晒すべきだろうか?

   ***

「秋月雫は一人で施設に戻ったのか?」

 九条時夜はオーナー椅子に座り、加賀和成に背を向けたまま冷淡に尋ねた。

 加賀和成は呆気にとられた。

 まさか九条社長が気にしているのがそんなことだとは。

「いいえ。秋月さんは二十代の若い男を連れていました。身長は182センチほど、痩せ型で、なかなかの美男子です。二人はかなり親しげに見えました」

 疑問を抱きつつも、加賀和成は高杉蓮の特徴を九条時夜に伝えた。

 彼が言い終わるや否や、男の手の中でティーカップが砕け散る音がした。

「九条社長! 大丈夫ですか?」

 九条時夜の手から血が滴り落ちるのを見て、加賀和成は慌てふためいた。

 九条時夜はハンカチを取り出し、無造作に血を拭うと、振り返って森のように暗い瞳で加賀和成を見据えた。

「彼女が白川ゆらの案件を引き受けると言ったから、お前は戻ってきたのか?」

 聡明な加賀和成は、自分が過ちを犯したことを即座に悟り、頭を下げた。

「申し訳ありません、九条社長。それが目的だと思いまして」

 九条時夜はデスクを激しく叩いた。

「勝手な真似をするな、無能が!」

 加賀和成の体が震えた。

 九条時夜の下で二年働き、最も長く続いているアシスタントである彼でさえ、激怒した九条時夜には恐怖を覚える。

 この男の威圧感はあまりに強大で、誰も逆らうことなどできないのだ。

「申し訳ありません! 処罰をお願いします!」

 九条時夜は眉間を揉み、瞳の奥に苛立ちを滲ませた。

「出て行け!」

 加賀和成は逃げるように退室し、執務室のドアを閉めてようやく息をついた。

 九条時夜の美しい顔は氷のように凍てついていた。

 記憶が正しければ、今日はあの高杉蓮の出所日だ。

 秋月雫のやつは、そんなに急いで彼に会いたかったのか。あの女は本当に恩知らずだ!

 考えれば考えるほど怒りが込み上げ、九条時夜は一日中不機嫌だった。会社の幹部や取引先は、息をすることさえ憚られるほど怯えきっていた。

 ようやく夜の九時になり、仕事が一段落すると、九条時夜は車を飛ばして帰宅した。

 玄関に入るなり、男の低い声が響く。

「秋月雫、出てこい!」

 二階から慌ただしい足音が聞こえ、いつものように彼女が嬉しそうに駆け下りてくるはずだ。

 その光景を思い浮かべ、九条時夜の眉間の氷がわずかに溶けかけた。

 しかし次の瞬間、彼は深く眉をひそめた。

「田中さん? 秋月雫は?」

 家政婦の田中は慌てて顔の化粧を拭い、怯えながら答えた。

「奥様は、奥様はずっとお戻りではありません!」

 彼女は自分の不運を呪った。秋月雫の化粧品をこっそり使い続けても誰にもバレなかったのに、よりによって九条さんに見つかるとは!

 田中は絶望した。明日の朝日を拝めるだろうか。

 だが、九条時夜はそのことになど気づいていなかった。

 彼の頭の中は、あの一言で埋め尽くされていた。

『奥様はずっとお戻りではありません』

 勤務時間に抜け出して間男に会いに行っただけでなく、会った後も家に帰らないだと?

 九条時夜の唇から冷笑が漏れた。

 あの女を甘やかしすぎたようだ!

「田中さん、玄関のパスワードを変更しろ。それから使用人全員に伝えろ。誰であろうと秋月雫を家に入れるなと!」

 彼女は両親もいない孤児で、友人もいない。九条家を離れて、一体どこへ行けるというのだ?

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