第1話
「雪見さん。癌は全身に転移していて、ステージ4です。できるだけ早く抗がん剤治療を始めましょう」
病院の廊下。頭上から落ちる冷たい白色灯が目に刺さり、雪見晴美(ゆきみ はるみ)は立っているだけで眩暈がした。
検査結果の紙を握りしめたまま、呆然と長い時間を過ごし――ようやく一本の電話をかける。
延々と鳴る呼び出し音のあと、傲慢な声が出た。
「奥さま。どうなさいました?」
和也の秘書だ。
「和也は……?」
喉がカラカラで、声が掠れる。
「社長はお忙しいのでお取り次ぎできません」秘書は苛立ちを隠そうともしない。「ご用件は私に」
晴美は口を開けたまま、結局和也を探すのを諦めた。
「……私、病気なの。治療費が必要で。口座に100万、振り込んでもらえない?」
「100万?」電話口の声が露骨に嘲る。「奥さま、ずいぶんお高い“ご病気”になられましたね。でも規定では、五万円を超える支出は事前に申請書が必要です。お金が欲しいなら、手続きを踏んでください」
「待っ――」
言い切る前に、ぷつりと切れた。
ツーツーという無機質な音を聞きながら、晴美はその場でふっと笑ってしまう。
藤原和也(ふじはら かずや)と結婚して五年。名目は藤原家の奥様でも、実態は怯えて暮らす家政婦のようなものだった。衣食住は和也の機嫌次第。金を使うのも秘書の気分次第。機嫌がいい月は生活費五万円、悪ければゼロ。臨時の出費は必ず申請、でなければ火の車でも一銭も出ない。
これまでは耐えてきた。けれど今日は――耐えられない、と唐突に思った。
晴美は目を伏せ、秘書の番号を迷いなくブラックリストに放り込んだ。病院を出た瞬間、スマホに刺々しいニュース通知がいくつも弾ける。
――【衝撃!藤原和也、謎の女と洲際ホテルに出入り。浮気疑惑!】
――【藤原和也、離婚危機?オークション会場で愛のために大散財】
――【白いドレスの女の正体、ついに判明!】
ゴシップのどれにも、半月近く家に帰っていない男が映っていた。共通しているのは、傍にはいつも儚げな白いワンピースの女がいて、和也の顔には――晴美が見たこともないほどの優しさが浮かんでいること。
電話がいつも話し中だったわけだ。新しい恋人の相手で忙しかったのだろう。
胸の奥に、言葉にできない渋みが広がる。晴美はタクシーを拾ってその場を離れた。
帰り道、スマホが震える。画面に浮かんだ名前は――和也。
「病気で金がいるんだって?」
男の声は淡々として、温度がない。
晴美の睫毛が微かに揺れる。言葉を探す前に、相手は勝手に命令した。
「洲際ホテルの駐車場。三十分以内に来い。ついでに、替えの服を一式持ってこい」
拒否の余地も与えず、通話はまた切れた。
胃の痛みが、その冷酷なツーツー音に引きちぎられるようにズキズキと脈打つ。晴美は鎮痛剤を二錠飲み込み、家で服を取って洲際ホテルへ向かった。
駐車場に着くなり、黒いマイバッハが目に入った。H市で和也だけの車。
窓を叩くと、ガラスが半分だけ下がり、久しぶりの男の顔が現れる。
仕立てのいい白シャツが広い肩と細い腰を際立たせ、片手で額を支える姿は気怠げだ。襟元のボタンが二つ外れ、鎖骨が覗く。
そして、その白い襟に――淡い口紅の跡。
覚悟していたはずなのに、心臓を鋭く刺された。
「来たか」和也は淡く言う。「ちょうどいい。外に鬱陶しい記者がいる。処理してこい」
煙草に火を点け、軽く言い捨てる。
「向こうは口が悪い。葵が聞いたら傷つく。連中に“お灸”を据えておけ」
全身が冷え切った。胃の痛みが胸に移り、息が詰まるほど苦しい。
「……どう処理しろっていうの」
和也は眉をひそめ、目の色を沈める。
「藤原グループの法務部総監だろ。こんなことも俺に教わるのか?訴えるなら訴えろ、警告するなら警告しろ。葵に不利な言葉が流れるのは許さない」
守り方が徹底している。毒を塗った銀針みたいに、晴美の心に突き刺さる。
拳を握りしめ、震える声を絞り出した。
「……私に、婚姻を壊した女の名誉を守れって?」
和也の顔が一気に冷える。
「立場を弁えろ。俺たちの結婚がどうやって成立したか、お前が一番わかってるはずだ」
晴美は青ざめた。胃がひっくり返るように痛む。
「藤原さんのおっしゃるとおり」
彼女は顔を上げ、白い唇で薄く笑った。
「私に資格はありません。――でも、この仕事はもう無理です。別の方に」
服を車内に差し入れる。眼は、死んだ水面みたいに静かだった。
和也の瞳に冷気が深く沈む。
「俺に反抗してるのか?」
可笑しい。反抗する資格すらないのに。
「誤解です」
白黒はっきりした瞳に、男の冷たい横顔が映る。
「ただ……もう、やめたいだけ」
服を置いて背を向けた瞬間――手首を掴まれ、強引に車内へ引きずり込まれた。
「何するの?!」
抵抗する間もなく、和也の大きな身体が覆いかぶさる。馴染みの木質の香りに、吐き気を催す甘ったるい香水が混じり、晴美の胃がきゅっと縮んだ。
男は容易く彼女を押さえ込み、意地の悪い笑いを含んだ声で囁く。
「嫉妬か?」
輪郭の整った顔が近づく。目の奥の投げやりさと支配欲が丸見えだ。
「ちょうど本家が子どもを催促してる。今日、ひとり作るか」
薄いタコのある指先が、抵抗を無視して服の裾に入り、慣れた動きで敏感なところを捉える。夫婦でいた年月だけ、彼は“彼女が崩れる場所”を知り尽くしていた。
晴美の頭が真っ白になる。
他の女と温存したあと、その女の香りをまとったまま――どうして、私に触れられるの。
「放して!」
必死に身をよじる。淡いブルーのニットは乱れ、白い顔に怒りで赤くなった目が、怯えた獲物のようだった。
その姿が、男を止めるどころか、欲を濃くする。
「何が嫌だ」和也は鼻で笑う。「前は毎日みたいに子ども欲しがってたくせに。いざ望み通りになったら、気取るのか?晴美、駆け引きは俺に効かない」
違う。いらない。もう何も。
理性が崩れ、ただ本能で押し返す。けれど力の差は歴然だった。和也は言葉を切り、彼女の両手を押さえつけ――容赦なく奪った。
「――っ、あ……!」
晴美の悲鳴。涙が本革シートに落ち、思考は暗い空白に沈む。
どれほど続いたのかもわからない。
終わったとき、晴美は溺死寸前の人間みたいに息を乱し、ドアを押して逃げようとした。
「そのまま出る気か。笑いものになりたいのか?」
和也が腕を掴む。
晴美は俯いて、ようやく気づく。服は半壊し、露わになった肌には生々しい赤い痕が散っている。誰が見ても、車内で何が起きたかわかる。
唇を噛み、無言のまま外へ向かう。
和也は眉を寄せ、ジャケットを脱いで乱暴に肩に掛けた。
その瞬間――「カシャッ」と眩しい白光が閃いた。
反射的に手を上げると、どこから湧いたのか、無数の記者が押し寄せ、カメラとマイクが晴美を取り囲んだ。
