第1話
「水原さん、大変申し上げにくいのですが……検査報告書の所見では、癌です。それから当院の照会システムで確認したところ、現在の婚姻状況が『未婚』になっておりまして……」
医師の二つの言葉に、水原葵は足元がぐらりと揺れた。
顔から血の気が引き、今にも気を失いそうだ。
ここしばらく、胃が引きつるように痛むことが増え、咳をすれば血が混じることもあった。
葵は病院へ来る前から、最悪の想像はしていた。だが――癌だなんて。
そして、予想していなかったのは「未婚」という一言。
癌の宣告よりも、むしろそちらのほうが、葵の心を叩き潰した。
「……私が未婚? システムのミスじゃないんですか。私、結婚して三年になります」
声が震える。葵の目の奥に、異様な光が走った。
三年前、藤原和也と結婚して、きちんと届けも出した。念のため自分で市役所のシステムに侵入して婚姻状態まで確認している。サイバーセキュリティ分野の第一人者である彼女にとって、データ一件を照会するなど造作もない。間違うはずがないのだ。
医師は言われた通り、改めてモニターを見た。その仕草が、葵の最後の希望を粉々に砕く。
「当院側のシステムデータが誤ることはありません。お身体の状態からして、できるだけ早く入院治療を……」
それ以降の言葉は、もう耳に入らなかった。
頭の中に漂うのは「癌」「未婚」――そのだけ。
こんなことで医師が嘘をつく理由はない。
病院を出て、葵は硬直した指で鞄からスマホを取り出し、友人の石川梨乃に電話をかけた。
「梨乃、あなた今、市役所に勤めてるよね。お願い……私と和也の婚姻状況、調べてもらえない?」
声の震えを必死に抑える。
もしかしたら病院の照会が間違っているだけかもしれない。
万が一、梨乃が「夫婦だよ」と言ってくれたら――。
万が一でも、そんなことがあれば。
三年間、信じて寄り添ってきた夫が、これほど巨大な嘘をついていたなど絶対に受け入れられない。
でも、胸の奥には、もっと恐ろしい推測が根を張っていた。三年前に自分が確認した結果が、最初から偽物だった可能性。
照会の最中に通信を遮断され、応答結果そのものを偽造された。
それが最初から和也の仕込みだったとしたら――?
梨乃は事情が飲み込めない様子だったが、それでも答えた。
「葵、ちょっと待って。今、調べるね。でもごめん、今ちょっと立て込んでて……あとで結果を連絡する」
「うん」
電話を切り、葵は路肩でタクシーを拾った。
その瞬間、車内のラジオが耳に刺さる。
『藤原グループ社長・藤原和也氏は本日、空中庭園で古川寧々さんのバースデーパーティーを開催。万単位のエクアドル産バラを空輸し、古川さんをまるで童話の姫に――』
葵は後部座席で固まった。見えない刃となった一語一語が、胸の奥を激しくえぐる。
古川寧々――和也がずっと想い続ける“高嶺の花”。
葵は反射的に鞄を抱きしめた。中に入っているのは、病院から受け取った癌確定の通知書。
今朝、胃痛が耐えがたくなり、和也に病院へ送ってほしいと頼んだ。だが彼は不機嫌そうにこう言った。
「そんなの運転手に頼め。俺は今日は大事な用がある」
仕事だと思った。だから追及せず、ひとりで病院へ向かった。
――違った。
大事な用とは、寧々の誕生日だったのだ。
彼女の誕生日のほうが、私の身体より大事。
震える手を胃に当てる。一年前、寧々が突然帰国してから、和也は変わった。
どんなに大きな問題があっても、寧々が電話一本かければ、彼は必ず真っ先に駆けつけた。
あれほどのバラを空輸する時間はあるのに、病院へ付き添う時間はない。
その現実が、平手打ちのように葵を打った。痛いのは頬ではなく心だ。
深く息を吸い、葵はスマホで和也に発信した。
コールは五回鳴って、ようやく繋がる。
受話口から聞こえたのは、低く冷たい声。
「何だ」
まるで取引先相手のような口調に、涙が喉元までせり上がる。葵は唇を噛み、声を保った。
「……もう忙しいの終わった? 身体がつらくて」
「つらいなら病院へ行け」
葵が次の言葉を口にする前に、通話は切られた。
画面に映るのは、青白くやつれた顔と、死んだような目。
雷が鳴っただけで泣きながら電話してきた寧々に、彼が二時間も付き合って優しく宥め、暴雨の中を車で迎えに行ったことを葵は覚えている。
なのに自分には、これだけ。
報告書を見つめ、葵は苦く口元を引きつらせた。癌だと告げたところで、和也は視線すらくれないだろう。
へとへとになって帰宅すると、胃の痛みはいよいよ増し、何も食べていないのにトイレに駆け込んで吐き続けた。
冷水で顔を洗い、鎮痛剤を二錠だけ探し出して飲む。眠って痛みをごまかしたかった。
だが、うとうとした矢先。
腰に不躾な手が伸び、寝間着の中へ潜り込んでくる。
葵は飛び起き、反射的に和也の逞しい手首を掴んだ。
制止された和也は不機嫌そうに眉をひそめる。寝室は暖色の常夜灯だけが灯り、彼の彫りの深い輪郭をいっそう冷たく見せた。
葵の胸がひゅっと縮む。手を押し返しながら言った。
「今日は体調が悪いの……また今度にして」
しかしその瞬間、和也は身を翻して覆い被さってきた。
両腕を葵の左右に突き、細長い目をゆっくり眇める。不満と危うさが滲む。
「駆け引きのつもりか?」
葵は痛みを堪え、震える声で答えた。
「本当に……具合が悪いの」
「俺を呼び戻したのは、そのためだろ」
言い終えるより早く、彼は葵の上に落ちてきた。
葵は天井を見つめたまま、ひと筋の涙を髪の中へ静かに落とした。
この手のことになると、和也は拒む隙をくれない。
意識が沈む間際、耳元で彼の声がした。
「余計なことはするな。藤原夫人の席は、ずっとお前のものだ」
