第6話

和也はローテーブルに置かれた離婚協議書をじっと見つめていた。背後から寧々が二度、小さな声で呼んでようやく反応を示すほど、長い時間だった。

彼が手を伸ばしてその書類を手に取ると、葵の心臓がドクンと鳴った。

だが和也は、協議書を半分に折り、さらに半分に折りたたみ、ゆっくりとした動作で四角くしてから、ローテーブルの下にあるゴミ箱へ放り投げた。

「お前の茶番はもう終わりだ」

和也の声は平坦で、怒りよりもむしろ、見下すような疲労感が滲んでいた。

「仕事を辞め、離婚協議書を突きつけ、寧々の目の前で騒ぎ立てる……一体何が目的なんだ? 条件の吊り上げか? それとも、俺の口から直接『お前が藤原家の妻だ』と言わせないと気が済まないのか」

ゴミ箱の中の四角い紙切れを見つめながら、葵はふと滑稽に思えた。

勇気を振り絞って踏み出したこの一歩も、和也の目にはただの癇癪としか映っていないのだ。

「お芝居なんかじゃないわ」

「広報対応を拒否して俺の限界を試そうとした時から、ずっと演じてるだろうが」和也の冷ややかな視線が突き刺さる。「自分が騒げば、俺の気を引けるとでも思ったか?」

彼が一歩前へ踏み出しても、今回ばかりは葵も引かなかった。

「いいか、最後に一度だけ言う。お前の立場を脅かす奴は誰もいない。だが、こんなくだらない小細工で俺の忍耐をすり減らすのはやめろ」

背後で、寧々が絶妙なタイミングで苦痛のうめき声を漏らし、先ほどぶつけた腰に手を当てた。

和也の意識は即座にそちらへ引き剥がされた。

彼は振り返り、身をかがめて寧々の様子を窺う。

「まだ痛むか?」

寧々は首を横に振った。目元を赤く腫らし、何かの邪魔を恐れるかのような細い声で言う。

「平気よ。それより、先に葵さんとのお話を……」

和也はそれを遮った。

「もういい」

寧々の肩を抱き寄せ、玄関へと向かう。葵のそばを通り過ぎる際、一秒だけ足を止めたが、振り返ることはなかった。

「つまらない企みは捨てろ。今夜は帰らないから、頭を冷やしておけ」

ドアは静かに閉められたが、その音は葵の耳にひどく重く響いた。

リビングには彼女だけが取り残された。

ゴミ箱の中では、折りたたまれた離婚協議書が静かに横たわっている。

葵はしばらく立ち尽くした後、しゃがみ込んでそれを拾い上げた。広げてシワを伸ばし、自分の鞄にしまう。

そして二階へ上がり、荷物をまとめ始めた。

クローゼットの中にある彼女の私物は多くない。数着の着替えと、古いノートパソコン、それに薬の入った小さな布袋だけだ。

それらをスーツケースに詰め込み、ファスナーを半分まで閉めたところで、スマホが鳴った。

画面に表示されたのは、藤原家本邸の固定電話の番号だった。

葵は画面を二秒ほど見つめ、通話ボタンを押した。

電話の主は藤原家の執事で、極めて恭しい口調だった。

「若奥様。来週の火曜日は由幸様のお誕生日でございます。祝宴は本邸にて執り行われますので、和也様と揃ってご出席くださるよう、由幸様より仰せつかっております」

葵はスマホを握りしめたまま、無言だった。

執事が言葉を継ぐ。

「招待状はすでに発送済みで、各家の方々はもちろん、取引先の方々もお見えになります。由幸様は、若奥様には必ずご出席いただくようにと念を押しておられました」

葵は、ファスナーが途中で止まったスーツケースに目を落とした。

「……わかりました」

電話を切ると、スーツケースを開け、服をクローゼットへ戻した。

出て行くわけにはいかない。

藤原由幸は藤原グループにおいて絶対的な権力を持っている。すでに第一線を退いているとはいえ、一族の中で彼の顔に泥を塗れる者などいない。祝宴に若奥様が欠席すれば、藤原家の内部に亀裂が生じていると世間に公言するようなものだ。

和也が許すはずがないし、由幸はなおさら許さないだろう。

和也に電話で知らせなければならない。

発信すると、二回のコールの後につながった。しかし、口を開いたのは彼ではなかった。

「もしもし?」

寧々の声だった。

葵の指先がピタリと止まる。

背景の音は静かで、どこかの部屋の中にいるようだ。病院とは思えない。

寧々は着信画面を見たのだろう。その声には、計算し尽くされたような無邪気さが混じっていた。

「葵さん? 和也なら今バスルームにいるけど、何か用なら伝えておこうか?」

葵は短く答えた。

「折り返し電話するように伝えて」

「わかったわ」寧々は少し間を置き、ふいに探るような優しい声色に変わった。「葵さん、和也のこと責めないであげてね。彼、気が短いだけで、あなたを嫌ってるわけじゃないの。本当はここ数日、どうやってあなたと話し合おうかずっと悩んでいたのよ……二人の関係について」

葵は相槌を打たなかった。

寧々はさらに続ける。

「辛いのはわかるわ。この三年間、あなたがたくさん尽くしてきたことも。でもね、こういうのは早く手放したほうが、お互いのためになると思わない?」

その口調は優しく思いやりに満ちていたが、言葉の裏にあるのは明確な身引きの要求だった。

葵は通話を切った。

そして和也にメッセージを送信した。

『お祖父様の祝宴、二人揃って出席する必要があるわ。詳細な時間は執事に聞いて』

送信を終えるとスマホをナイトテーブルに放り投げ、洗面所へ向かって顔を洗った。鏡に映る自分の顔は、唇のひび割れがさらにひどくなり、目の下にはどす黒い隈が浮かんでいる。

ポケットから鎮痛剤のボトルを取り出し、二錠を手のひらに出して口に放り込むと、蛇口の冷水で一気に流し込んだ。

胃が一度痙攣し、そして静まった。

葵は明かりを消し、ベッドに横たわって目を閉じた。

疲れ果てていた。肉体的にも精神的にも限界で、意識はすぐに遠のいていった。だが、眠りに落ちた直後、寝室のドアが乱暴に開け放たれた。

明かりが点いた瞬間、突き刺さるような白い光が部屋を満たす。

葵が身を起こす間もなく、手首を強く掴まれた。

ベッドの傍らには、冷気を纏った和也が立っていた。シャツの襟元ははだけ、その胸は激しく上下している。

彼はほとんど引きずり出すようにして、葵を布団から引っ張り起こした。

「お前、何をした?」

その声は低く沈み、激しい怒りを押し殺していた。

掴まれた手首に走る激痛で、睡魔は一瞬にして吹き飛んだ。だが、頭はまだ状況を理解できていない。

「……何の話?」

和也はスマホの画面を彼女の目の前に突きつけた。

画面には一通の手紙の写真が映っている。紙の上には、新聞から切り抜かれた文字が歪に貼り付けられ、一つの文章を成していた。

『Y市から出て行け。さもないと痛い目を見るぞ』

宛先は寧々。

「今夜、寧々が帰宅した時、マンションのドアの隙間にこれが挟まっていたんだ」和也は葵を睨みつけ、荒い息を吐いた。「彼女の目の前で離婚協議書を叩きつけ、突き飛ばしてテーブルにぶつけさせ、今度は脅迫状か。葵、お前のやり口はこんなものしかないのか?」

葵は画面を凝視し、脳を高速で回転させた。

「私じゃないわ」

「まだしらばっくれる気か?」

「午後からずっと、この部屋を一歩も出ていないもの」

和也は冷笑した。

「自分で行く必要はない。誰かに届けさせれば済む話だ」

葵の喉の奥に、生暖かい鉄の匂いが込み上げてきた。

彼女はそれを無理やり飲み込む。

「寧々のマンションはオートロックだし、廊下には防犯カメラがあるはずよ。そんな基本的なことすら調べずに、私を問い詰めているの?」

和也の怒りはその言葉に一瞬削がれたが、それも束の間だった。

「俺に指図する気か?」

葵はベッドの縁に手をついて立ち上がろうとしたが、胃の中で荒れ狂うものがますます勢いを増していく。もう抑えきれないと悟った。

「信じようと信じまいと勝手だけど、その手紙は私が出したものじゃないわ」彼女は深く息を吸い込んだ。体調の悪さから声が震える。「私には、そんな暇はないの」

「お前――」

和也が言い終わるより早く、葵は激しく身を折り曲げた。

口からどっと鮮血が溢れ出し、和也の革靴に飛び散る。

目に刺さるような赤が、オフホワイトの絨毯に落ちて瞬く間に染みを広げていく。

葵は床にへたり込み、片手でベッドの縁を死に物狂いで掴みながら、もう一方の手で口元を押さえた。指の隙間から血が滴り落ちる。

寝室は静まり返り、血が絨毯に滴る音さえ聞こえるようだった。

和也はその場に立ち尽くしたまま、動けなかった。

自分の靴に付着した血を見下ろし、そして、床でうずくまる葵を見つめていた。

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