第8話

「胃癌よ。もう中期だって」

和也は受け取らなかった。

ベッドの傍らに立ち、葵の握る紙切れを見下ろす彼の眉間には、深い皺が刻まれている。

数秒の沈黙ののち、和也は低く沈んだ声で口を開いた。

「お前が癌になっただと?」

葵には、もう同じ言葉を繰り返す気力すら残っていなかった。

和也は手を伸ばして報告書をひったくり、一瞥をくれた。病院の公印、主治医の署名、病理番号。二ページ目をめくり、また一ページ目へと戻る。

そして、その報告書をベッドの上に放り投げた。

「行くぞ。病院だ」

葵は顔を上げ、彼を見つめた。

和也の表情に浮かんでいたのは、心配などではない。冷酷な値踏みだ。

「俺が直接連れて行って調べてやる。もし本当なら、見捨てたりはしない」

そこで言葉を切り、さらに付け加えた。

「だが、もし嘘だったら――どうなるか分かっているな」

立ち上がろうとした葵は膝から崩れ落ちそうになり、ベッドの縁にすがりついて辛うじて持ちこたえた。

和也が手を差し伸べることはなかった。

彼が前を歩き、葵が二歩後ろをついていく。

車内は重い沈黙に包まれていた。和也は片手でハンドルを握り、猛スピードで車を走らせる。葵は助手席の背もたれに寄りかかり、波のように押し寄せる胃の痛みに耐えていた。腹部を押さえ、目を閉じる彼女の額には、びっしりと冷や汗が浮かんでいる。

和也はルームミラー越しに彼女をちらりと一瞥したが、何も言わなかった。

病院の救急入口に着き、葵が車を降りた直後。目の前に停まっている白いポルシェが視界に入った。

車から降りてきた寧々が、焦燥に満ちた顔で小走りに駆け寄ってくる。

「和也! 急に病院に行くなんて言うから、すごく心配したのよ。どうしたの?」

葵は足を止めた。

車中で和也は寧々に電話していたのか。葵はまったく気づかなかった。

「大したことじゃない。こいつの検査に付き添うだけだ」

和也の口調は淡々としていた。

寧々は葵を一瞥し、いかにも気遣わしげな視線を向けた。

「葵さん、具合が悪いの? すごく顔色が悪いわよ」

葵は相手にせず、そのまま外来ロビーへと歩を進めた。

受付、順番待ち、採血、そして胃カメラ。

その間ずっと、和也は廊下に立って待っていた。寧々は傍らのベンチに大人しく座りながら、絶え間なくスマホで何かを打ち込んでいる。

胃カメラを終えて出てきた葵の口の中は消毒液の匂いが充満し、喉は焼け付くように痛んだ。

壁にもたれかかり、結果を待つ。

四十分後、番号が呼ばれた。

和也が彼女より先に診察室へ足を踏み入れた。

パソコンの前に座る医師は眼鏡を押し上げ、葵のカルテデータを呼び出した。

「水原葵さんですね。胃カメラと血液検査の結果を拝見しましたが、現在のところ悪性腫瘍の兆候は見られません。軽度の表層性胃炎がありますので、消化の良い食事を心がけ、しっかり休養をとるようにしてください」

入り口に立ち尽くす葵の頭は、真っ白になった。

あり得ない。

あの確定診断の報告書。自分で確認した病理組織のプレパラート番号。それなのに、何もないはずがない。

和也が振り返り、彼女を見た。

その目つきを、葵は知っている。怒りよりもさらに深い感情――嫌悪だ。

彼は診察室を出て、葵の横を通り過ぎる。その足は止まらない。

「これで満足か?」

葵は慌てて後を追い、掠れた声で叫んだ。

「違う、この結果はおかしいわ。私、前に別の病院でちゃんと診断されたのよ」

和也は廊下の中央で立ち止まった。蛍光灯の白い光が彼の顔を照らし、半分を明るく、もう半分を暗い影に沈めている。

「葵、お前はいつまで芝居を続けるつもりだ?」

「芝居なんかじゃない!」

「癌まで騙しの道具に使うとはな」

和也の声は低く押し殺され、一文字一文字が釘のように突き刺さる。

「反吐が出る」

彼が一歩踏み出し、葵の腕をきつく掴む。骨が軋むほどの強い力だった。

そのまま彼女を引きずり、廊下の突き当たりに立つ寧々の方へと向き直る。

和也は鋭い声で言い放った。

「寧々に謝れ」

その言葉に、葵の身体は凍りついた。

寧々が早足で駆け寄り、和也の腕にすがりつく。

「和也、もういいわ。葵さんも本当に具合が悪いのかもしれないし、これ以上責めないであげて」

和也は手を離さない。

「脅迫状にネットの嫌がらせ、挙句の果てには仮病か。ご丁寧なことだ」

彼は葵を睨みつけた。

「謝れ」

葵は鞄に手を突っ込み、元の病院の確定診断書を引っ張り出した。

「これを見て。これが最初の検査結果よ。病理番号もプレパラート番号も全部載ってる。元のデータを照会してもらって」

和也の視線が、その報告書の上で二秒ほど止まった。それを受け取り一瞥する。事実確認をすべきか、迷っているようだった。

その時、寧々が不意に壁に手をつき、ふらりと身体を揺らした。

「和也、ちょっと目眩が……」

声は弱々しく、顔色も青ざめている。

寧々は片手でこめかみを押さえ、目元をほんのりと赤く染めた。

和也は即座に報告書を葵に押し返し、振り返って寧々を抱きとめた。

「どうした? さっき風に当たって冷えたんじゃないか?」

寧々は彼の肩に寄りかかり、力なく首を振る。

「平気よ。ただ、今夜のメッセージに驚いちゃって……そのショックがまだ抜けきらなくて」

和也の表情が一瞬で変わった。痛ましくてたまらないという目で寧々を抱き寄せ、エレベーターホールへと歩き出す。そして、振り返りもせずに言い捨てた。

「お前は一人で帰れ」

報告書を握りしめ、廊下に立ち尽くす葵は、背後の診察室のドアを振り返った。

あの医師はうつむいて何かを書き込んでいる。

ガラス越しに、机の上のパソコンのモニターがちょうど見えた。病院のシステムにある彼女のカルテデータが改ざんされたことは間違いない。なぜなら、そのカルテ画面の配色やフォントの字間が、正規の院内システムとは肉眼で分かるほど異なっていたからだ。

だが、そのデータは事前に書き換えられていたはずだ。それに、寧々が到着するのも早すぎた。

和也が車中で電話した際、すでに寧々に情報を漏らしていたのだ。逆算すれば、寧々には偽のカルテデータを用意する十分な時間があったことになる。

葵が病院の正面玄関を出る頃には、雨が降り出していた。小雨ではない。頭上から叩きつけるような豪雨が地面を打ち、真っ白な水しぶきを上げている。

薄手のトレンチコートを羽織り、玄関の庇の下に立ってスマホの配車アプリを開く。しかし、付近に応答する車は一台もなかった。

十分待っても、画面の表示は変わらない。

やがて雨はさらに激しさを増し、水気を含んだ冷風が骨の髄まで入り込んでくる。葵の手はすっかり凍え、胃も痙攣し始めていた。鎮痛剤は鞄の中にあるが、ミネラルウォーターのキャップをひねる力すら残っていない。

遠くの車道で不意にヘッドライトが光り、一台の黒い車が減速しながら彼女の目の前に静かに停まった。

窓が下りた瞬間、葵はハッと息を呑んだ。運転席に座っていたのは、悟だった。

助手席では、晴美が横を向いて彼女を見ている。

葵は庇の下に立ったまま、動けなかった。

悟は無表情に彼女を一瞥し、淡々と言い放った。

「乗れ」

葵は何も答えない。

晴美が助手席から身を乗り出し、ふわりと微笑んだ。

「葵さん、外はこんなに酷い雨よ。突っ立ってないで、乗りなさいな」

葵は二秒ほど躊躇ったのち、ようやく後部座席のドアを開け、車内へと滑り込んだ。

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