第3章
悠真が日付の変わる直前に帰宅した。珍しいことだった。
彼は玄関にコートを掛け、ふと立ち止まった。その視線が本棚に向かう――かつて、私たちの写真が飾られていた空白のスペースに。
彼の表情が、ほんの一瞬だけ変わった。
「写真はどうした?」
私が答えるより先に、彼はもう寝室へと歩き出していた。
「落ちて、ガラスが割れたの」
彼は棚のそばにあるゴミ箱に視線をやった。粉々に砕けた写真立てを見て、その肩から力が抜ける。
それから、彼は小さな紙袋をベッドの上に置いた。中に入っていたのは腕時計だった。シルバーの文字盤に、レザーのストラップ。
「昨日の埋め合わせだ。それに、さっき気づいたんだけど……今日は俺たちの記念日だったな。三年目の」彼は私の枕元にその時計を置いた。
「記念日おめでとう、麻衣子」
一瞬、彼が本当に覚えていてくれたのだと信じそうになった。
けれど、紙袋から覗くレシートが目に入った。購入時刻は一時間前。きっと結衣の『三年記念日』の投稿でも見て記憶が呼び起こされ、帰りがけに買ってきたのだろう。
私のナイトテーブルの引き出しには、これとそっくりな時計がすでに三つも眠っていることを、彼は知らない。私は何も言わず、ただ彼を見つめた。
「あともう一つ」彼はベッドの端に腰を下ろし、ためらいがちに口を開いた。
「今年度の最優秀医師賞の推薦のことなんだが。今回は、結衣に譲ってやってくれないか? あいつもこの科に来て三年になる。あいつにとって、すごく大きな意味があるんだ」
私の顔に何かを読み取ったのか、彼は慌てて付け加えた。
「お前はもう何年も連続で選ばれてるじゃないか。たった一年のことだろ」
危うく笑い出してしまうところだった。時計はただの前置きで、本当の目的はこちらだったのだ。
「いいわよ」
今年だけじゃない。彼女が望むなら、これからの先もずっと。私はもう、ここで競い合うことなんてないのだから。
彼は瞬きをした。
「本当か? あっさりと?」
「あなたの教え子だもの。当然よ」
彼は何か違和感を探るように、しばらく私を観察していたが、やがて次の話題へと移った。
「明日の朝は休みを取ったんだ。市役所に行こう。婚姻届を出そう」
私は返事をしなかった。
彼は部屋の隅にあるスーツケースを思い出したようだ。声のトーンが優しくなる。
「待てよ、明日はフライトの予定じゃなかったか? 何時だ?」
「午後三時」
私は彼を見つめた。これが最後だ。辞表のこと、エス市へ行くこと、そして――もう二度と戻ってこないこと。すべてを打ち明ける、最後のチャンス。
そのとき、彼のスマートフォンが鳴った。
結衣からだった。スピーカーから漏れる声は切迫し、パニックを起こしているのがわかった。術後の患者の容態が急変したらしい。合併症だ。今すぐ病院に来てほしいと彼女は言っていた。
電話を切り、彼が私を見る。申し訳なさそうな顔をしながらも、その手はすでにコートへと伸びていた。
「結衣の受け持ち患者が急変した。行かないと」
私は喉まで出かかっていた言葉を飲み込み、微笑んだ。
「行って。彼女にはあなたが必要よ」
たちまち彼の顔に安堵の色が浮かぶ。鍵をひっつかみ、半分ドアから出かけたところで、彼は振り返った。
「明日。朝の十時に市役所だ。本気だからな、麻衣子――今度こそ、何があっても必ず行くから」
ドアが閉まった。私は長い間、ただベッドに座っていた。
結局、彼は最後まで、私に直接別れを告げる隙すら与えてくれなかった。
翌朝。私はスーツケースのジッパーを閉め、タクシーを呼んで、そのまま空港へと向かった。市役所には行かなかった。
正午になっても、電話はない。メッセージもない。『どこにいる?』の一言すら。
いよいよ搭乗時刻が迫ってきた頃、ようやく私のスマートフォンが震えた。
『結衣の患者が再手術になって、午前中ずっと手術室に入ってた。今日は市役所には行けそうにない。旅行から帰ってきたら必ず埋め合わせをするから、約束する』
その文面を二度読んだ。何も感じなかった。
十八回。彼が約束したのはこれで十八回目。一度たりとも守られたことはない。
私は返信を打ち込んだ。
『気にしないで、悠真。私、仕事は辞めたの。今、エス市に向かっているところ。今日を最後に、もう二度と会うことはないわ』
送信ボタンを押し、電源を切ろうと指を伸ばす。
その途端、画面が爆発したかのように通知で溢れ返った。次から次へと届くメッセージ。そして着信。また着信。すべて、悠真からだった。
