第1章
宮沢詩音視点
私の名前は宮沢詩音。
芸能界のトップスター、森原覚の――契約による「隠し妻」だ。
顔立ちも悪くないし、スタイルにも自信がある。なにより、身のほどをわきまえている。
この数年、私は森原覚に一度だって面倒をかけなかった。パパラッチに、彼のマイナスになるような噂を掴ませたこともない。
普段、森原覚が家に戻れば、妻として彼の身の回りを整える。
夜だって、私の「義務」は果たす。彼の生理的な欲求を、きちんと受け止める。
――たとえば今も、そう。
熱を帯びた行為が終わったばかりで、彼はまだ私の中にいた。
けれど次の瞬間、彼はさっと身を引き、裸のまま私から距離を取った。
驚きはしない。
森原覚がこんなふうに、私と切り離そうとするのは初めてじゃない。
彼は落ち着いた手つきでスラックスを履き、ベルトを締める。引き締まった腰、浮き上がる腹筋がいやに目を引いて、私はつい視線を留めてしまう。
関係を持つようになってから、私は彼のあの強い腰が好きだった。力強く動くたび、意識が飛びそうになるほどの快楽を運んでくる。
森原覚は、決して「いい雇い主」ではない。
けれど「いいベッドパートナー」であることは間違いない。――だからこそ、この三年の契約婚は、妙に安定して続いてきたのだと思う。
ベルトを締め終え、淡い青のシャツに腕を通した森原覚が、ボタンを留めながら何でもないことのように口を開く。
「空野朱音が戻ってくる……」
その名前を聞いた瞬間、体がびくりと強張った。
胸の奥に、甘さと苦さがないまぜになったものが渦を巻く。私は必死に呼吸を整え、みっともなく見えないように笑みの形を作った。
空野朱音は、森原覚にとっての高嶺の花。
四年もの間、彼が待ち続けた初恋。――その前では、私なんて、いてもいなくてもいいただの相手でしかない。
彼が空野朱音を愛していることくらい、痛いほどわかっている。
そして、空野朱音が帰ってくるなら――契約妻の私は、そろそろ舞台を降りる番だ。
私はブラジャーのホックを留めながら、事務的な微笑を返した。
「……それで? どうするつもり?」
私の聞き方があまりに察しがよすぎたのだろう。森原覚は一瞬だけ目を見開き、それからすぐに表情を戻した。
最後のボタンを留めると、冷えた声で命じる。
「秘書に離婚協議書を作らせる……」
離婚協議書――その言葉に、また体が硬くなる。動揺を悟られたくなくて、私はベッドを降り、彼のジャケットを掴んで肩にかけた。
「わかった。……サインする」
その返事が気に入らなかったのか、森原覚の空気が一段冷たくなる。
彼は私の顎を指で持ち上げ、探るように言った。
「ずいぶん素直だな?」
私は小さく笑う。
素直でいるしかない。契約妻なんて、所詮その程度の存在だ。自分の立場は、よくわかっている。
母が重い病気になり、手術費が数百万円必要だった。工面できずに追い詰められていた私の前に、森原覚が現れた。
契約書を差し出し、婚姻届を出し、母の治療費とその後のリハビリ費用まで払った。
この三年、彼は私を粗末に扱わなかった。毎月50万円の生活費は、欠かさず私の口座に振り込まれている。
言ってしまえば私は、妻である以前に、彼の金で華やかな生活を維持している寄生虫みたいなものだ。
寄生虫が、逆らえるわけがない。
私は笑みを浮かべたまま、彼のシャツのボタンを一つずつ整えていく。
「空野朱音さんとは、本物の恋でしょう? 私が奥様の席にしがみつく資格なんてありません」
「ご安心ください。距離は保ちます。空野朱音さんに、私たちの間に何かあったなんて思わせません」
その言葉に、森原覚は満足したらしい。
彼は私の頬を軽く叩くように撫でて、バスルームへ向かい、身支度を始めた。
森原覚視点
どうしてだろう。
宮沢詩音に離婚を切り出したとき、彼女があまりにも素直に頷いた――その瞬間から、胸の内が妙にざわついて仕方ない。
三年、契約夫婦として過ごし、三年、同じベッドで眠ってきた。
さすがに、少しは情があると思っていた。……いや、あって当然だと、どこかで決めつけていたのかもしれない。
だが、彼女は離婚を受け入れる顔をしていた。
本当に、俺に何の感情もないみたいに。
俺は優秀だ。普段の扱いも悪くない。三年間、女は宮沢詩音ひとりで、他の女に目もくれなかった。
普通なら、離婚と言われたら少しは惜しむだろう?
なのに、今の俺は……気分が悪い。
適当に身支度を終えてバスルームを出ると、リビングで宮沢詩音が裸足のまま忙しそうに動き回っていた。従順な子猫みたいに、あちこち行ったり来たりして。
彼女はミルク入りのオートミールを用意し、いつも通り大人しく差し出す。
「オートミール、どうぞ。胃にいいから」
「離婚したら、もう作ってあげられないかもしれない。お仕事忙しいんだから、体を大事にして」
その言葉が、ずしりと胸に落ちた。
……同情を引くつもりか?
それで俺が離婚の話を引っ込めるとでも思ってるのか?
ありえない。
俺が愛しているのは、最初から空野朱音だけだ。たとえ四年前、婚約式の場で空野朱音が俺を捨てたとしても。
俺はカップを受け取り、一気に流し込む。胃の奥に温かさが広がり、体の力が抜けた。
空のカップを宮沢詩音の手に押し返し、わざと冷たい声を作る。
「離婚協議書には、補償を上乗せしてやる……」
金は困らない。
宮沢詩音が俺に媚びるのも、結局は自分の取り分を増やしたいだけだろう。
彼女は補償を断らなかった。――当然、嬉しいはずだ。
離婚の細部を詰めようとした、そのとき。
空野朱音から電話がかかってきた。
着信表示を見た瞬間、俺は反射的に宮沢詩音から距離を取る。
通話を繋ぐと、鈴の音みたいな声が飛び込んできた。
「覚くん……もう空港に着いたよ。迎えに来てくれるって言ったじゃない」
「覚くん、なんでまだ来ないの……?」
