第2章

 空野朱音の鈴を転がしたような声が耳に入った瞬間、胸の奥に溜まっていた鬱屈が、嘘みたいにすっと消えた。

 俺はできるだけ柔らかい声を作る。

「今行く」

「ちょっと手元の仕事が片付かなくてさ。悪いけど、もう少しだけ待っててくれ」

 通話を切って振り返ると、背後では宮沢詩音が、さっき俺が使ったカップを洗っていた。表情は淡々としていて、朱音からの電話ひとつで揺れた様子もない。

 その平然さが、なぜだか腹立たしい。

 三年だ。ベッドの上で、俺は三年も彼女を抱いてきた。必死に、何度も、何度も。

 それでも――彼女の「気にする」という反応ひとつ、引き出せないのか。

 俺が駄目なのか。

 それとも宮沢詩音にとって、森原覚という男は、金を出すだけの契約夫でしかないのか。

 俺は上着を掴んで玄関へ向かい、苛立ちのままにドアを――バン!――と強く閉めた。

    ◇

宮沢詩音視点

 森原覚は行った。

 空港へ。彼の心の中の高嶺の花、空野朱音を迎えに。

 玄関のドアが乱暴に叩きつけられた、その瞬間。

 私が必死に貼り付けていた「平気な顔」が、音を立てて崩れ落ちた。

 洗っていたカップをそっと置き、シンクの縁に手をつく。膝が抜けそうで、倒れないように、ただ必死で。

 三年の契約夫婦。

 森原覚が優秀な男だとわかっているからこそ、私だって、何も感じなかったわけじゃない。

 でも、私が彼のお金を受け取った時点で――私の気持ちは、彼の目には「安いもの」になる。

 買ったものに、本気になる必要なんてない。そういう世界だ。

 それにしても。

 森原覚は、空野朱音に嘘をついた。

 迎えが遅れた理由が、私の上で一時間も費やしていたからだなんて――彼が言うはずがない。

 カップを洗い終えると、私は二階へ上がり、自分の荷物をまとめ始めた。

 この別荘に住んで三年。離婚するなら、持ち物は全部引き上げるべきだ。

 空野朱音に、私の痕跡をひとつでも見つけられるわけにはいかない。

 生活はもともとシンプルだ。服と日用品を数点、スーツケースに詰めれば終わる。

 これまで森原覚にもらった金で、私は街の片隅に80平米の小さなマンションも買った。

 離婚したら、そこに住む。

 ――彼が与えた「退路」。

 皮肉なほど、ありがたい。

 あとはタクシーを呼んで――そう思った、そのとき。

 老宅の執事、白原さんから電話が入った。

「若奥様、奥様がお呼びです。腰がまた痛むそうで、鍼をお願いしたいと」

 森原お婆さんが具合を悪くした――それだけで胸がきゅっと縮む。

「わかりました、白原さん。すぐ伺います」

 白原さんは少し声を和らげた。

「焦らないでください。道中ゆっくり。奥様が心配なさいますから」

 その言葉が、少しだけ酸っぱく胸に染みた。

 森原覚が撮影で家を空けるたび、森原お婆さんは私を森原家の実家へ呼び、傍に置いてくれた。

 若い頃に家のため無理を重ねたせいで腰を痛め――私は母の病のために独学した鍼で、痛みを和らげてきた。

 だから森原お婆さんは、私を好いてくれる。

 それもまた、私がここにいられた理由のひとつだった。

 身支度を整え、私はタクシーで森原家の老宅へ向かった。

    ◇

空野朱音視点

 海外から戻った私は、空港でかなり待たされた末に、ようやく森原覚の姿を見つけた。

 マスクをつけ、髪を整え、淡い色のシャツにカジュアルなジャケット。

 背が高くて、歩くだけで女の視線を集める。

 ……私だって例外じゃない。

 四年。

 どうしてここまで格好よくなれるの?

 こんな日が来ると知っていたなら、婚約のとき、何があっても彼を捨てたりしなかったのに。

 私を誘惑したジムのトレーナーは、見た目も悪くないし、ベッドでも頑張ってくれた。

 けど、金も地位もない。未来が見えない。

 だから私は帰国して、森原覚の腕の中へ戻ることを選んだ。

 森原覚の心には、まだ私がいる。

「覚君」と呼べば、高校時代の彼に引き戻せる。私は彼を落とせる――あのトレーナーが私を落としたみたいに。

 人混みの中で小さく手を振る。

「覚君、ここ……!」

 わざと甘く、少し幼く聞こえる声を作る。

 海外で学んだ。男の庇護欲をいちばん簡単に刺激するのは、無垢な女の子の顔だ。

 森原覚は自然に私のスーツケースを取ってくれた。

 私はそのまま彼の胸に寄りかかり、腰に腕を回す。崇拝するみたいな目で見上げた。

 ――その瞬間、彼の体が僅かに硬直した。

 ……抱きしめるのが嫌?

 彼は慎重に私を押し戻し、小声で言った。

「抱きつくな。パパラッチがいる。変に書かれたくない」

 距離を取られたことで、私は彼の匂いをはっきり嗅いだ。

 高級な香水じゃない。もっと、生っぽい――女の体温みたいな匂い。

 この匂いだけでわかる。

 彼の傍には、もう別の女がいる。

 でも、私は焦らない。

 彼はその女から離れて、私を迎えに来た。

 それだけで十分。私の席が、まだ残っている証拠だもの。

 私が欲しいのは、森原奥様の座。

 森原家の大きな財産を、これからゆっくり使える未来。

 彼の周りに女が何人いようと気にしない。

 大事なのは、私が「妻」になること。

 私はわざと残念そうにして、聞き分けよく頷いた。

「……うん、覚君。あなたの言う通りにする。抱きつかない」

 私の顔色を見た森原覚が、小声で説明する。

「空野朱音、ごめん。お前を守るためだ。あいつらは本当に下衆だ。芸能人の生活を暴くためなら何でもする」

「一緒にいるところを撮られたら、お前に迷惑がかかる」

「俺は、お前に傷ついてほしくないんだ」

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