第3章
森原覚の言葉は、私のためでもあり、同時に彼自身のためでもある。
私は帰国した。森原夫人になるために。あんな下品なパパラッチどもの前に晒されるためじゃない。
もしあいつらに、私とジムのトレーナーのことを掘り返されたら――森原夫人になる計画は、おそらく水の泡だ。
大事な計画を台無しにしないためにも、ここは慎重に動かないといけない。
私はさっと森原覚から距離を取った。
「覚君、説明なんてしなくていいよ。わかってる。全部、私のためを思ってのことでしょ?」
それを聞いて、森原覚はほんのわずかに口元を緩めた。
ほら、やっぱり。
男って、結局は素直で聞き分けのいい女の子が好きなんだ。
空港を出たあと、私は森原覚の車に乗り込んだ。
さすが森原家の若様にして今をときめく人気スター。森原覚の車は見るからに高級で、あのトレーナーが一生かかっても手に入れられないような代物だった。
助手席に座って、ようやく私は安心して彼の腕に自分の腕を絡め、甘える。
「覚君、私、あなたと一緒に本家へ行って、森原お婆さんにご挨拶したいな……」
「4年も会ってないし、お婆さんのこと、すごく気になってたの」
私が森原お婆さんに会いたいと言うと、森原覚はわずかに眉をひそめた。少し気が進まないらしい。
「本気か? 先に空野家へ戻って休まなくていいのか」
サングラス越しの横顔まで絵になる。森原覚はハンドルを切り、車を滑るように幹線道路へ乗せた。
私は俯き、しおらしく謝る。
「覚君、あの頃……婚約のとき、私が意地を張って、黙っていなくなったでしょう? 森原お婆さんも、きっとそのことで覚君に辛く当たったよね」
「全部、私が悪かったの。私のせいで、森原お婆さんに嫌な思いをさせたくない」
「だから謝りたいの……覚君、本当にごめんなさい」
私の謝罪を聞いた森原覚の表情は、どこか重かった。
真面目に前を見て運転しているだけ。そう見えるのに、その沈んだ横顔の奥に、私はたしかに「許し」の気配を見た。
親しい友人から聞いている。私が去ってからの数か月、森原覚はひどく荒れて、酒に溺れるような日々を送っていたと。
時間をかけて、ようやく立ち直ったのだとも。
それほどまでに、彼は私を愛していた。
なら、私が少し優しくしてあげれば、許してくれるに決まっている。
案の定だった。
森原覚は短く言った。
「……わかった」
私はぱっと顔を明るくして、嬉しそうに彼の腕を揺らす。
「覚君、森原お婆さんにお土産も持ってきたの。すごく高価な数珠なんだよ。お婆さん、信心深いから、きっと喜んでくれると思う」
「それにね、覚君にもちゃんとプレゼントがあるの」
頬を赤らめた私は、そのままきゃっきゃと話し続けた。
私みたいに華やかな女の子を、嫌いな男なんていない。
昔だってそう。私が現れたからこそ、森原覚の人生には光が差したのだから。
30分ほどして、森原覚の車は森原家の本家へと滑り込んだ。
車が停まってすぐ、私は門のあたりに立つ女に気づいた。
淡い青色のワンピースを着た、20代前半くらいの女。顔立ちは悪くないし、体つきもそこそこ。肩の力の抜けた自然な表情で、白原と話している。
しかも、白原の態度が妙に丁重だった。
森原覚と何年も関わってきたけれど、あんな女、見たことがない。
……誰?
何者なの?
宮沢詩音視点
森原お婆さんの腰に鍼を打って痛みを和らげたあと、私は白原さんを手伝って花に水をやっていた。
森原お婆さんがいちばん好きなのは蘭だ。だから森原家の本家にはたくさん植えられているし、中には森原覚がわざわざ遠方から探してきた珍しい品種もある。
蘭は繊細だ。水が多すぎても駄目、少なすぎても駄目。
白原さんは園芸にそこまで詳しいわけではないので、花好きの私によく訊ねてくる。
私は白原さんと話す時間が嫌いじゃない。森原家で、森原お婆さんを除けば、私と森原覚が籍を入れていることを知っているのは彼だけだから。
白原さんが言った。
「詩音、お婆さんもお年だからな。何度も曾孫の顔が見たいとおっしゃってる。お前さんも頑張って、早く子どもを作らないとな」
子どもの話をされても、そこまで不快ではない。
けれど白原さんは知らない。森原覚は私と寝るたび、毎回きっちり避妊する。
私が望まなくても、望んだとしても、子どもなんてできるはずがない。
それにもうすぐ、私たちは離婚する。
そのことを白原さんが知ったら、この催促がどれだけ滑稽に見えるだろう。
私は曖昧に笑ってその話を流し、じょうろを持ったまま蘭の育て方について話していた。
そんなふうに白原さんと穏やかに話していた、そのときだった。
森原覚が、若くて華やかな女の子を連れて、私たちの前に現れた。
その子は森原覚の腕にぴったりと絡みつき、身体まで寄せている。どう見ても、恋人同士の距離感だった。
たぶん――あの子が、森原覚の心に住み続けている高嶺の花、空野朱音だ。
さすがは裕福な家の令嬢。生活に追い立てられることのない人間特有の、若さと無邪気さが顔にそのまま浮かんでいる。
白原さんは空野朱音を見た瞬間、目に見えて一瞬固まった。
けれど白原さんが口を開くより先に、空野朱音のほうが軽やかに声をかける。
「白原、久しぶり……」
白原――呼び捨て。
その一言だけで、彼女が自分の立場をどれだけ高く見ているかがわかる。白原さんは森原お婆さん付きの執事であり、遠縁の親族でもある。本家の使用人たちはみんな敬っているし、森原覚だってきちんと「白原さん」と呼ぶ。
それなのに、空野朱音は平然と「白原」と呼んだ。親しさを装いながら、自分の優位を示すように。
白原さんは小さく咳払いしてから応じた。
「空野さん、ようこそ」
「森原お婆さんは? お顔を見に来たの」
空野朱音は顎を上げ、広い客間のほうへ目を向けた。視界に入るのは忙しそうに動く使用人たちばかりで、森原お婆さんの姿はない。
白原さんが答える。
「お婆さんは少しご体調が――」
最後まで言い終える前に、空野朱音が言葉をかぶせた。
「森原お婆さん、どうしたの? どこか悪いの? 病院にお連れしたほうがいいんじゃない?」
「白原、あなた、どういうつもり? 森原お婆さんの具合が悪いのに、こんなところで花に水なんてやってる場合?」
そして、そのまま森原覚の腕を引く。
「覚君、森原お婆さんのところに行こう?」
最初から最後まで、森原覚は私を一度も見なかった。
それだけで十分だった。
彼の目に、私は入っていない。
――正直、少しだけ傷ついた。
でも、すぐに自分で笑ってしまう。
もうすぐ離婚する契約妻に、傷つく資格なんてあるわけない。
私は気持ちを整え、あくまで部外者の顔を作ると、じょうろを持ち直してまた花に水をやろうとした。
そのとき、空野朱音の声がすぐそばで響いた。
森原覚の腕に絡みついたまま、彼女は私を見て尋ねる。
「覚君、この人だれ? 新しく入った使用人のおばさん? 私、見たことないんだけど」
