第4章

 空野朱音に「新しく入った使用人のおばさん」なんて言われた瞬間、思わず飛びかかって横っ面を張ってやりたくなった。

 別に、あの女が現れたせいで私の契約結婚が壊れるからじゃない。

 ただ単純に――あの目は節穴か、と思っただけだ。

 どう見たって私は若い。

 おばさん? だったらいっそ、おばあさんとでも呼べばいい。

 空野朱音の問いを聞いた森原覚は、すぐには答えなかった。

 顎をしゃくって私を示し、自分で名乗れと言わんばかりの視線を寄越してくる。

 ……わかってる。

 出しゃばるつもりはない。

 私は空野朱音に向かって薄く微笑んだ。

「空野さん。私は森原家で新しく雇われた家政婦です」

「へえ?」

 私が森原家に雇われた家政婦だと名乗ると、空野朱音は小さく声を漏らした。

 頭の先からつま先まで値踏みするように眺めたあと、柔らかな体をさらに森原覚へ寄せる。

 その気配を避けるように、森原覚の体がわずかにずれた。

「覚君。この家政婦さん、見た感じまだ若いよね? こんなに若くて、森原お婆さんのお世話なんてちゃんとできるの?」

 露骨な疑い。

 けれど森原覚は、相変わらず何も言わない。

 ……なるほど。

 空野朱音は最初から、私に絡むつもりなのだ。

 雇われの立場なら、主人の指示もないのに余計な口は挟まない。

 それくらいのことは、私だってわきまえている。

 私が黙っていると、空野朱音はさらに追い打ちをかけてきた。

「若いのに住み込みの家政婦なんて、何か別の狙いでもあるんじゃない?」

 そう言いながら、ちらりと森原覚を見る。

 私と彼の関係を探る目だ。

 すると森原覚は、自分の立場を示すように空野朱音の肩を抱き寄せ、言い聞かせるように口を開いた。

「俺にとって一番大事なのは、お前だけだ」

 その言葉に、空野朱音はくすっと甘く笑う。

 でも私の胸には、矢が何本も突き立ったみたいに痛かった。

 森原覚は空野朱音に誠意を見せているんじゃない。私に向かって、お前なんて何でもないと突きつけているだけだ。

 私はひとつ深呼吸して、感情を押し込めた。

 そして、静かに言い返す。

「空野さん、考えすぎです。私は森原家で、森原お婆さんのお世話をするために雇われただけです」

「お給料をいただいている以上、自分の仕事はきちんと果たします」

「その程度の職業意識はありますので」

 言いながら、私は自然と背筋を伸ばしていた。

 空野朱音は鼻で笑う。

 私の言い分なんて、端から信じる気もないという顔だ。

 一方で森原覚は、私の言い方が気に入らなかったらしい。

 向けてくる視線が、ひやりと冷たく鋭い。

 ……もうすぐ離婚するくせに。

 今さらそんな目で睨まれたって、怖がると思わないでほしい。

 そこまで空野朱音に気持ちがあるなら、さっさと私と別れてくれればいい。

 毎日毎日、目の前でいちゃつく姿を見せられるこっちの身にもなってほしい。どうせなら早く正式にくっついて、そのまま二人で閉じていてくれ。もう私を巻き込まないで。

 私はこれ以上ここに立ち尽くして、空野朱音に好き放題言われるつもりはなかった。

 じょうろを提げたまま、別の場所へ移って花に水をやろうとする。

 けれど背を向けた瞬間、後ろから空野朱音の声が飛んできた。

「ねえ、私にコーヒー淹れて」

 命令口調だった。

 まるで、自分こそがこの森原家の女主人だとでも言うみたいに。

 もうただの嫌がらせじゃない。

 こういう形で、自分の立場を見せつけているのだ。

 私と森原覚は契約結婚だ。

 それでも、まだ離婚はしていない。そんな私に向かって、あの女が当然みたいに命令するなんて――私への侮辱である以上に、森原覚の顔に泥を塗る行為でもある。

 周囲にいた使用人たちが、ひっと息を呑む気配がした。

 森原お婆さんに仕える使用人たちは、私の立場を知っている。

 もっとも、この家で働く前に全員が守秘義務契約を結んでいる。森原覚は芸能人だ。既婚の事実を外に漏らすことは許されない。

 その中の一人、早坂が慌てて空野朱音の前へ進み出た。

 深く一礼してから、控えめに口を開く。

「空野さん、コーヒーでしたら私がお淹れします」

 だが、早坂が言い終える前に、空野朱音は森原覚の腕に絡みつき、甘ったるい声でねだり始めた。

「覚君、私、この人が淹れるコーヒーを飲んでみたいな。森原お婆さんのお世話をするために来たっていうのに、コーヒーひとつ淹れられないなら、お世話なんてできないでしょ?」

「別にいじめたいわけじゃないの。ただ、森原お婆さんのために、ちゃんとできる人なのか見ておきたいだけ」

「ねえ、覚君……」

 聞いているだけで鳥肌が立つ。

 さすがに森原覚も、ここでは止めるだろうと思った。使用人たちの前でくらい、私の面子を少しは守るはずだと。

 ――甘かった。

 森原覚は空野朱音をやわらかく見つめて、小さく頷く。

 それから顔をこちらへ向け、命じた。

「行け。空野さんにコーヒーを淹れろ。……砂糖は多めだ。苦いのは苦手だからな」

 ――は?

 胸の奥で、怒りがどん、と爆ぜた。

 今すぐこのじょうろの水を、森原覚の顔面にぶちまけてやりたい。

 それでも私は息を止めて、心の中で何度も自分に言い聞かせた。

 落ち着け。

 相手は金を出している側だ。

 もうすぐ離婚する。

 そのときには、きっとそれなりの手切れ金も出る。金のためだと思って、今は飲み込め。

 離婚して金を受け取ったら、ダーツでも買ってあいつの写真に刺してやればいい。

 どうにか怒りを押し殺し、私は無理やり笑みを作って森原覚に頷いた。

「かしこまりました。すぐにお淹れします」

 そう言って、じょうろを手に茶水間へ向かう。

 背筋を伸ばしたまま森原覚と空野朱音の横を通り過ぎると、空野朱音の敵意むき出しの視線が肌に刺さるのがわかった。

 けれど、そんなものに怯むつもりはない。

 背後から、またあの甘えた声が聞こえてくる。

「覚君ってほんと優しい。4年も経ってるのに、まだ私の好みを覚えててくれたんだね」

「この世界で、私に一番優しいのは覚君だけ……感動しちゃう」

 気持ち悪い。

 ぞわっと立った鳥肌を振り切るように、私は足早に茶水間へ逃げ込んだ。

 森原家には全自動の豆挽きマシンがある。

 以前の森原覚はコーヒーが好きで、よく使用人に挽かせていた。

 けれど私と籍を入れてから、彼の胃が弱いと知って、朝のコーヒーをやめさせた。

 あれ以来、家ではほとんど飲まなくなっていたのに。

 私はコーヒーマシンを軽く拭き、豆を挽く準備を始めた。

 そのときだった。

 森原覚が、ぬっと茶水間に入ってきた。

 冷え切った顔のまま私を隅へ追い込み、自分の体で逃げ道を塞ぐ。

 胸元に押しつけられる体温。指先で顎を持ち上げられ、私は否応なく彼を見上げた。

 そして彼は、不機嫌を隠しもしない声で問い詰める。

「……お前、どうしてそんなに弱いんだ?」

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