第8章
森原覚の呼吸が、見る間に荒くなっていく。
もちろん、私だってぼんやりしていたわけじゃない。すぐに手を伸ばし、彼の服を脱がせにかかった。
まずはネクタイをぐいっと掴み、彼の上体を引き寄せる。そうして首筋へ唇を寄せると、ネクタイを歯先でちろちろと弄び、そのまま噛んでほどいていった。
この手は海外で覚えたものだ。こんな誘惑に抗える男なんて、そうはいない。
ネクタイを外したあとは、今度はシャツのボタンに歯をかける。ひとつ、またひとつ。ゆっくりと、焦らすみたいに外していく。
――そのときだった。
情にほだされかけていた森原覚が、不意に我に返ったみたいに目を覚ました。次の瞬間、彼は手を伸ばし、私を突き放した。
いきなり押しのけられて、胸の奥に強い敗北感が広がる。
私はしおらしく目を潤ませ、彼を見上げた。
「覚君……私のこと、好きじゃないの?」
私の問いを聞くと、森原覚はふいっと顔を背けた。
わかっている。私の火照った身体を、これ以上まともに見られないのだ。
彼は妙に理性的な顔を作って、低く言った。
「空野朱音、早く服を着ろ……俺たちは、こんなの駄目だ」
その言葉で、負けず嫌いな私の気質に火がついた。
駄目?
私たちが、こんなの駄目?
男と女の関係なんて、結局はそういうものじゃない。まさか森原覚は、男女が身体を重ねることすら受け入れられないとでもいうの?
……いいえ、そんなはずない。
だって彼は、もう十分にその気になっている。
なら、もっと攻めればいい。
駆け引きは女だけのものじゃない。男だって、焦らしたり引いたりはよくやる。だったら、こっちも遠慮なんてしない。
私は突き飛ばされた勢いのまま数歩で詰め寄り、背後から彼のたくましい腰に腕を回した。胸をそっくりそのまま、彼の背中に押しつける。
服越しでもわかる。腹筋は硬く締まっていて、以前付き合っていたトレーナーにも引けを取らない。
こんな腰なら、一晩中相手をしたって飽きないかもしれない。
熱に浮かされた指先で彼にしがみつき、私は甘えるような声を漏らした。
「覚君……私たち、4年も離れてたのよ。その4年、私がどんな気持ちでいたか、わかる?」
「ずっと会いたかった。愛してる。あのときのこと、今でも後悔してる……覚君は、私の人生でいちばん好きな人なの」
「お願い……私を抱いて」
ここまで言えば、さすがに抗えないはずだ。
実際、彼の腰のあたりがますます熱を帯び、はっきりと反応を強めていくのがわかった。私は勝ちを確信し、さらに身を寄せる。
けれど次の瞬間――
森原覚は手首に力を込め、私の腕を一本ずつ腰から外した。
そのまま私を押しのける。肌も露わなランジェリー姿を前にしても、彼は視線ひとつ寄越さない。
伏せた目元に影を落としたまま、彼は静かに言った。
「悪い、空野朱音。今日は帰る。ちゃんと休め」
それだけ言うと、もう私に付け入る隙すら与えず、大股で部屋を出ていく。
追いかけようと我に返ったときには、もう遅かった。
彼はためらいなく扉を開け、そのまま出て行ってしまった。
去っていく背中を見つめながら、私は怒りで全身を震わせる。尖った爪が手のひらに食い込むほど拳を握りしめると、指の関節がうっすら白くなった。
森原覚は、私が嫌いなんじゃない。
私と寝たくないわけでもない。
私を拒んだのは――きっと、心の中に別の女がいるからだ。
今までたくさんの男を見てきたから、わかる。
男は本気で愛した女にだけ、何の迷いもなく手を伸ばす。そういう相手にだけ、欲望のまま応えるものだ。
私との一夜を捨ててまで、森原覚が守りたかった女。
それは、いったい誰?
宮沢詩音――?
胸の奥に、疑いの種が深く沈んでいく。
そこでようやく気づいた。
あの宮沢詩音という女、思っていたよりずっと厄介かもしれない。
なら、こちらも手を打つまでだ。
これからはもっと気を配って、できるだけ早く彼のそばから追い出してやる。
森原覚は、私のもの。
そして森原夫人の座も、空野朱音である私のものだ。
けれど、煽られた欲は簡単には消えない。こんな広い別荘にひとりきりでいても、退屈が募るばかりだった。
少し考えた末、森原覚が帰ってまもなく、私はスモーキーなメイクを施し、身体の線がくっきり出るタイトなミニドレスに着替えた。
それからこの街でいちばん大きなナイトスポットへと繰り出した。
森原覚が私を抱かないからといって、他の男までそうとは限らない。
森原覚視点
空野朱音の家を出たあとも、気分はまるで落ち着かなかった。
何より厄介なのは、身体のほうだ。
あんな格好を見せられて、彼女の意図がわからないほど鈍くはない。
それでも、俺にはできなかった。
ひとつは、空野朱音があまりにも無垢に見えたからだ。そんな彼女に、軽々しく欲を向ける気にはなれない。
もうひとつは、俺と宮沢詩音がまだ離婚していないこと。
離婚が成立していない以上、俺たちはまだ夫婦だ。そこで空野朱音と関係を持てば、不貞になる。
家柄もある。仕事柄、女が寄ってくることにも慣れている。
だからこそ、せめて最低限の節度くらいは守るべきだと思っていた。
それに、空野朱音は華奢すぎる。
俺の相手を、本当に受け止めきれるのか――そんなことまで頭をよぎった。
だから何度も自分に言い聞かせた。
駄目だ。あのまま彼女を汚すわけにはいかない。
どうしても欲しくなるなら、それは宮沢詩音と離婚してからだ。
離婚届を出していない以上、宮沢詩音はまだ俺の妻で、俺の欲を受け止める義務がある。
空野朱音に煽られた欲は、なかなか引かなかった。
車に乗り込み、立て続けに煙草を3本吸っても、腹の底の熱は鎮まらない。
……宮沢詩音が欲しい。
俺の下で、あの女が甘く声を漏らすのを聞きたい。
そう思った瞬間、俺はスマホを取り出していた。
宮沢詩音へ、短いメッセージを送る。
【帰ってこい。お前が必要だ】
この文面の意味くらい、あいつにはわかる。
これまでも、俺がこう送れば、宮沢詩音は家で身体を整え、香りを纏って待っていた。
メッセージを送ったあと、俺はそのまま別荘へ車を走らせた。
信号待ちで止まっていると、宮沢詩音から返信が来る。
どうやら怒っているらしい。
【絶対に無理。だって、あなたには釣り合わないもの】
……は?
その一文を見た瞬間、もともと高く張っていた俺の自尊心が、ぶつりと音を立てて切れた。
帰れないなら帰れないでいい。
だが、釣り合わないだと?
いい度胸だな、あの女。
誰の金で生きてきたと思ってる。ここまで逆らうなら、徹底的にわからせてやるしかないらしい。
俺はハンドルを切り、進路を本家へ変えた。
怒りが膨らむほど、腰の奥の欲もまた激しくなっていく。
今夜、絶対にあの女を押し倒してやる。
泣くほど抱き潰して――俺が本当に「不相応」かどうか、その身体に教え込んでやる。
