第2章
栞奈視点
朝十時。私は教会のブライズルームに一人きりで座り、鏡の中の自分をぼんやりと見つめていた。
何か月分もの給料をはたいて買った真っ白なウェディングドレスは、シルクのようになめらかに体に沿っている。けれど、鏡に映る花嫁姿の女は、痛々しいほど孤独に見えた。
『人生で一番、美しい日になるはずなのに』
レースの縁を指でなぞりながら、必死に自分へそう言い聞かせようとした。
がらんとした部屋は、不気味なほど静まり返っている。ブライズメイドも、姉妹も、もちろん家族もいない。昨夜の母の言葉が、耳の奥にこびりついて離れなかった。『仁助を助けないなら、あんたの結婚式に出ると思わないで』
それでも、ドアの方を何度も見てしまう。母が考えを改め、謝るために飛び込んでくるかもしれない、なんて愚かな期待を捨てきれずにいた。
『ありえないわ、栞奈』鏡の中の自分に、私は苦い笑みを向ける。『お母さんは誰にも謝らない。特に、あなたにはね』
「これでよかったのかもしれない」私は自分に言い聞かせるように囁いた。「あの人たちがいなければ、今日は完璧な一日になるはず」
けれど、胸にぽっかりと開いた虚しさは、何をもってしても埋められそうになかった。婚約者である高峰哲也を除けば、私はこの世界で本当に一人ぼっちなのだ。その実感が、ガラスの破片のように胸に突き刺さった。
その時、控えめなノックの音が私の思考を遮った。
「栞奈、入ってもいいかい」
ドアの向こうから、哲也の温かい声が聞こえた。
私は慌てて目元を拭う。「ええ、もちろん」
ドアが開き、完璧に仕立てられた黒のタキシードに身を包んだ哲也が入ってきた。白い薔薇のブーケを抱えたその姿は、まるで物語から抜け出してきた王子様のようだ。私を見るなり、彼の目が感嘆に見開かれた。
「……すごい」彼は畏敬の念すら滲ませた声で近づいてきた。「栞奈、息をのむほど、綺麗だ」
『これよ。これが、私が欲しかった反応』
私の心臓が、とくん、と大きく跳ねた。
彼は私の後ろに回り込むと、鏡の中の私を見つめながら、そっと肩に手を置いた。
「式の前に花婿が花嫁の姿を見るのは縁起が悪いってわかってるんだけど、我慢できなかった。どうしても伝えたくて。君は本当に、本当に綺麗だ」
彼の感触は温かく、頼もしかった。私は思わず彼にもたれかかる。「ありがとう。あなたも、とても素敵よ」
哲也は、私の瞳に浮かぶ悲しみの影に気づいたようだった。
「どうしたんだい?少し、悲しそうだね」
私は深く息を吸った。「お母さんと仁助が、来なかったの。昨日の夜、私が仁助のローンの連帯保証人になるのを断ったから……お母さん、彼を助けないなら、私の結婚式には期待するなって」
哲也の表情が、ふっと和らいだ。彼は私を自分の方に向かせ、両手で私の顔を包み込む。
「ああ、栞奈。それでよかったのかもしれない。今日は僕たち二人だけのものだ。誰にも、僕たちの完璧な瞬間を邪魔させたりしない」
『彼はいつも、私が欲しい言葉をくれる』
「栞奈」彼は私の目をまっすぐに見つめ、私がずっと渇望していた約束を、その声に乗せた。「今日から、僕が君の唯一の家族だ。命懸けで君を愛し、守る。もう二度と、誰かのために自分を犠牲にする必要なんてないんだ」
また涙が込み上げてきたけれど、今度は喜びの涙だった。
「この日を、ずっと待ってた」
哲也は私の額に、羽のように軽いキスを落とした。
「僕もだよ、栞奈。祭壇で君を待ってる。いいね?僕たちの新しい人生を、始める準備はできたかい」
「ええ、とっくに」私は彼の手を強く握った。
哲也が部屋を出て行った後、私は鏡に向き直り、化粧を直そうとした。ちょうどその時、スマートフォンの画面が光った。銀行からの通知メッセージだった。
何気なくそれに目をやって――そして、思考が停止した。
『口座残高:¥0』
……は?
何度もメッセージを読み返すうちに、指先が冷たくなり、震え始めた。そんなはずはない。私の貯金口座には三〇〇万円、三年かけて必死に貯めた、私の最後の命綱が入っていたのだ。
震える指で、もつれるように番号をタップし、銀行のカスタマーサービスに電話をかけた。
「もしもし、水瀬栞奈と申します。先ほど、私の普通預金口座に関する通知を受け取ったのですが、何かの間違いでは――」
『確認いたしますので、少々お待ちください……はい、水瀬様。今朝九時に三〇〇万円の引き出しが確認されております。こちらの取引は、正常に承認済みとなっております』
足から力が抜け、私は椅子に崩れ落ちた。
「誰に、承認されたんですか」
『お客様のデビットカードと暗証番号を使用し、ATMにて引き出されております』
『私の暗証番号を知っているのは、お母さんだけ』
怒りが、腹の底でマグマのように煮えたぎった。
手が滑り、スマートフォンを落としそうになりながら、すぐに母へ電話をかける。
「お母さん!一体、何してくれたのよっ!」
電話の向こうから、仁助のゲームの喧騒と共に、母の苛立った声が返ってきた。
『あら、大声出さないでちょうだい、栞奈。仁助が車の頭金で急にお金が必要になったから、ちょっと下ろしてあげただけよ。どうせあんたは玉の輿に乗るんだから、そんな端金で大騒ぎしないで』
『端金?』
全身の血の気が、さあっと引いていくのを感じた。
「あれは私の退職金だったのよ!三年もかけて貯めたお金なの!」
『それに』母の口調は、さらに平然としたものになった。『哲也さんのご家族はお金持ちなんでしょ。その三〇〇万が、そんなに大事なわけ?ケチケチしないでちょうだい、栞奈。家族は助け合うものでしょう』
一方的に、通話は切れた。
手の震えが止まらない。私は固くスマートフォンを握りしめた。
『本当にやったんだ。私の結婚式の日に、私のなけなしの貯金を、全部』
『落ち着いて、栞奈。こんなことで、結婚式を台無しにしちゃだめ』私は必死に自分をなだめようとした。『哲也の言う通りよ。私たちには自分たちの家ができて、もう誰の心配もする必要なんてなくなるんだから』
正午、私は一人でバージンロードを歩いた。エスコートしてくれる父親も、ベールの裾を直してくれる母親もいない。ただ、祭壇で待つ哲也の姿だけが、私の行く先を照らしていた。
教会は、夢のように美しく飾り付けられていた。白い薔薇と百合の香りが立ち込め、ステンドグラスから差し込む光が、床に虹色の模様を描いている。哲也は、目に涙を浮かべて私を見つめていた。
『これが、私の欲しかったもの』私は口座のことを無理やり心の隅に押しやった。『今日、私は愛する人と結婚して、新しい人生を始めるんだ』
私たちは祭壇の前に立ち、牧師が厳かに誓いの言葉を述べ始めた。哲也は私の手を握り、感情を込めて囁く。
「栞奈、僕たちがどんな困難に直面しようとも、必ず君のそばにいると誓う。生涯をかけて君を愛し、守り、大切にすることを誓うよ」
私は彼のハンサムな顔を見上げ、震える声で応えた。
「哲也、あなたは私の救いよ。私の人生のすべて、心のすべてを、あなたに捧げます」
牧師が、にこやかに言った。
「この結婚に異議のある方は、今すぐ申し出るか、永遠に沈黙を守りなさい」
『誰もいない』私は思った。『やっと、邪魔されることのない、幸せが』
その瞬間、教会の重厚な扉が、雷鳴のような音を立てて開け放たれた。
振り返ると、一人の女性が祭壇に向かってずんずんと歩いてくるところだった。彼女はゆったりとしたマタニティドレスを着ており、お腹は丸く突き出ている。太陽の光を浴びて、その金色の髪がきらめいていた。
『紗矢さん』哲也の同僚だと、すぐにわかった。何度か会ったことがある。『彼女が、どうしてここに』
「異議あり!」
紗矢の声が、静寂に包まれた教会中に響き渡った。
「異議ありに決まってるでしょ!」
後に続いた沈黙は耳をつんざくようで、私の激しい心臓の鼓動だけが、破裂しそうなほど大きく鳴り響いていた。
「私のお腹には、哲也の赤ちゃんがいるのよ!」
彼女は勝ち誇ったように一枚の紙を高く掲げた。
「妊娠六ヶ月よ!」









