第5章 彼女は本当に去ったのか?

トレンドの下には、写真まで添えられていた。

浅井景辰と日野遥がホテルでディナーを共にしている。日野遥の首元では、淡いピンクダイヤのネックレスがひときわ目を引いていた。

そのネックレスは、半月前に浅井景辰がオークションで2億で落としたものだ。

浅井夫人への誕生日プレゼントらしい――そんな噂もあった。

違った。帰国した日野遥への贈り物だったのだ。

そこでようやく、辻本雨妃ははっとした。

今日は日野遥の誕生日。――それだけじゃない。自分の誕生日でもあった。

自分を痛めつけるみたいに、コメント欄をスクロールする。二人は運命の相手だと囃し立てる声が、いくつも並んでいた。

その中には、写真まで混じっていた。

浅井景辰と日野遥が、並んでバーにいる写真。

『昨日、浅井夫人が夫婦仲は良好だって声明を出したばかりじゃなかった? 今度は何なの?』

『もしかして浅井夫人、自分の夫をかばうために自分で火消ししたとか?』

『事情も知らないくせに適当なこと言わないで。もともと浅井社長と遥さんはお似合いだったの。辻本雨妃が手を回して浅井家に入り込まなきゃ、二人の子どもなんてもう学校に通ってたわよ』

その先も、ほとんどが自分を罵る言葉ばかりだった。もう見ていられなくなって、辻本雨妃は画面を落とした。

昨日、彼が自分をホテルへ呼びつけたのは、本当に日野遥の名誉を守るためだけだったのか。

それとも、夫を引き止めるためなら尊厳さえ捨てる女だと、世間に思わせるためだったのか。

――あるいは、その両方か。

その時、不意にスマホが鳴った。画面に出た、登録のない番号。辻本雨妃はその場で固まる。

日野遥からのビデオ通話だった。

呆然としたまま画面を見つめているうちに、一度切れた着信が、またすぐにかかってくる。しつこいほどに。

何に引かれたのか、自分でも分からないまま、辻本雨妃は通話ボタンを押していた。

画面の向こうはひどく賑やかだった。どう見てもバーの中だ。

見覚えのある顔がいくつも映る。浅井景辰がいつもつるんでいる連中だった。

けれど、誰一人として辻本雨妃の存在には気づいていない。

すぐに分かった。日野遥がわざと繋げたのだ。わざと、自分に見せつけるために。

切ろうとした、その瞬間だった。向こうから飛んできた囃し声に、視線が引き戻される。

『キスしろよ!』

ソファに腰を下ろす浅井景辰。そのすぐ隣に、日野遥がぴたりと寄り添っている。淑やかに笑うその顔は、いっそ見惚れるほど綺麗だった。

聞き慣れた声が、スマホのスピーカー越しに響く。

『景辰さん、遥とこんなに長く会ってなかったんだろ。今日は遥の誕生日なんだし、キスくらいしてやれば?』

篠原允だった。いつも笑いながら、自分を義姉さんと呼んでいた男。

それに続いて、周りの連中も面白がるように声を重ねる。

日野遥は照れたように唇をきゅっと結び、それでもどこか懐かしむような眼差しで、浅井景辰の横顔を見つめていた。

「やめてよ。今はもう、あの頃とは違うんだから。景辰は結婚してるのに」

篠原允は鼻で笑って肩をすくめた。

「昔、お前が景辰さんと結婚してりゃよかったのにな」

「ほんとそれ。遥さんは顔もいいし性格もいいし、優しいし。景辰さんとお似合いなのはどう考えても遥さんのほうだろ」

「しかも景辰さんの命の恩人だしな。あんたらが結婚できなかったのが、一番の心残りだわ」

友人たちの露骨な当てこすりを、浅井景辰は止めようとしなかった。ただ赤ワインをひと口含んだだけ。

ざわざわとした悪意は、まだ続く。

「田舎者が手を回して、浅井のじいさんを利用して嫁ぎ込んだからだろ」

「そうそう。遥さんと景辰さんこそ、本当なら結ばれるはずの二人だったのに」

辻本雨妃は、食い入るように画面を見つめていた。浅井景辰なら止めてくれると、どこかでまだ思っていたのだ。

――止めない。

咎める気配すら、ない。

胸が、また痛んだ。

その時、日野遥が口を開く。優しくて、非の打ち所のない声音だった。

「そんなふうに言わないで。もしかしたら、私と景辰には縁がなかっただけかもしれないし」

俯いた声に、かすかな寂しさが混じる。

「景辰が幸せなら、それで十分。私は……この友情も、大切にしたいの」

そう言ってから、潤んだ瞳を上げ、情を含んだ眼差しで浅井景辰を見た。

ようやく、浅井景辰が反応する。

彼は日野遥を見下ろした。その眼差しは、辻本雨妃が一度も向けられたことのない、どうしようもなく優しいものだった。

唇をゆるめ、彼は日野遥の耳元の髪をそっと払う。

「……俺も、お前を大事にする」

そして次の瞬間、彼は日野遥の腕を引き寄せ、そのまま唇を重ねた。

周囲がどっと沸く。

もう見ていられなかった。辻本雨妃は震える指で、通話を切った。

彼にとって自分は、どこまでいっても、手段を尽くして彼に嫁ぎ、想う女を引き裂いた罪人でしかない。

どれくらいそうしていたのか。

やがてスマホに、メッセージが一通届いた。

日野遥からだった。

『見た? 5年経っても、景辰の心の中にいるのはあなたじゃないの。もういい加減、現実を見たら?』

――その通りだ。

この5年、ずっと自分だけが嘘にすがっていた。

だから、今日で終わらせる。

辻本雨妃は何も返さず、静かに荷造りを始めた。

5年の結婚生活。スーツケースひとつで、全部収まってしまう。

荷物を引いてリビングへ出ると、彼女は静かに室内を見渡した。

ここが自分の家になると、信じていた。

けれど違った。

家じゃないのなら、出ていくだけだ。

別荘を後にし、配車アプリで車を呼ぶ。そのまま空港へ向かった。

同じ頃、テーブルに置かれた浅井景辰のスマホが、ひっきりなしに鳴っていた。

苛立たしげに通話を取る。

「旦那様……」

使用人の長島が、おそるおそる口を開く。

「奥様が、お荷物をまとめて出て行かれました」

電話の向こうが、一瞬しんと静まった。

「……出て行った?」

「はい。スーツケースを持って……空港へ向かうと」

浅井景辰はスマホを握ったまま、わずかに眉を寄せる。

無意識に隣の日野遥へ視線が向いた。彼女は誰かと楽しげに話していたが、その視線に気づくと、ふわりと優しく微笑み返してくる。

「景辰、どうしたの?」

浅井景辰は視線を戻し、電話口へ短く告げた。

「分かった」

そのまま通話を切る。

グラスを取り上げ、ひと口飲んでも、胸の奥が妙にざわついた。

出て行った?

今度は、何のつもりだ。

しばらく考えた末、浅井景辰はスマホを手に取り、辻本雨妃へ電話をかけた。

けれど返ってくるのは、無機質なアナウンスだけ。

――着信拒否されている。

浅井景辰はそのままチャット画面を開いた。数秒考え、結局送ったのは「?」の一文字だけ。

返ってきたのは、やけに目立つ「!」。

……いい度胸だ。そこまでやる気か。

彼の空気が変わったのを察したのか、日野遥がそっと身を寄せてくる。柔らかな身体が、彼の腕に触れた。

「景辰、どうしたの? 何かあった?」

「辻本雨妃が出て行った」

そのひと言を聞いた瞬間、日野遥の目にかすかな得意げな色がよぎる。けれどすぐに消えた。

「出て行った? 家出ってこと? どうして……まさか、私たちのこと誤解したのかな」

少し困ったように眉を下げ、それから柔らかく続ける。

「景辰、帰ってなだめてあげたら? ああいうのって、結局は構ってほしいだけだし。女って、好きな人の前だとどうしても意地悪になっちゃうでしょ。私のせいで、あなたたちが揉めるのは嫌だな」

さっきまで燻っていた苛立ちは、その言葉であっさり別の形に変わった。

浅井景辰は冷たく鼻を鳴らす。

「くだらない小細工ばかりだな。ほんと、性根が変わらない」

グラスを置き、吐き捨てるように続けた。

「そんなに芝居が好きなら、好きなだけやらせておけばいい」

――だが。

深夜になって帰宅した浅井景辰は、その場で凍りついた。

辻本雨妃のものが――何ひとつ、残っていなかった。

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