第6章 六年後
正確に言えば、なくなっていたのは辻本雨妃がもともと持っていた私物だけだった。
この数年、彼が用意させてきたオートクチュールの服も宝飾品も、すべてそのまま残っている。消えていたのは、五年前に嫁入り道具として持ち込んだものだけ。
それに、彼がテーブルへ置いておいた離婚届も見当たらなかった。
浅井景辰は目を細め、冷えたまなざしのまま長島を呼びつけた。
「奥様はどこへ行った」
長島は両手を前で重ね、深く頭を下げる。
「旦那様……わ、わたくしにも分かりません。奥様はただ、『出ていきます』と……」
「出ていくと言ったら、そのまま行かせたのか」
浅井景辰の声が鋭く落ちた。
「ひとりも見張れないなら、明日には荷物をまとめて出ていけ」
長島を下がらせると、浅井景辰はネクタイを緩め、苛立ちを隠さぬままソファへ腰を落とした。そして長島補佐に電話をかける。
「辻本雨妃がどこへ行ったか調べろ」
――あの女の芝居が、いったいいつまで保つのか。見ものだ。
三日後。浅井グループ本社最上階の社長室。
「浅井社長、分かりました」
長島補佐が不安げな面持ちで報告する。
浅井景辰は書類に目を落としたまま、手を止めない。声も返さない。
「奥様はスイスへ出国されています。こちらが出国記録と搭乗便の情報です」
その言葉に、浅井景辰の手がわずかに止まった。だが視線を資料へ一度落としただけで、何も言わない。
――あの女が、スイスで何をするつもりだ。
長島補佐は顔色をうかがいながら、おそるおそる口を開いた。
「浅井社長……必要でしたら、スイス行きの航空券をお取りしましょうか」
浅井景辰は万年筆を置き、椅子の背にもたれた。瞳の奥が暗く沈む。
日野遥の言葉が脳裏をよぎる。
たった三日だ。辻本雨妃はきっと、自分が折れて迎えに来るのを待っているだけ――そういうことかもしれない。
だが、なぜ自分が頭を下げてまで連れ戻さねばならない。
浅井景辰は鼻で笑い、再び仕事へ視線を戻した。
「出ていくと言うなら、好きにさせておけ。構う必要はない」
所詮は駆け引きだ。ここで自分が折れれば、あの女はますますつけ上がるだけ。
祖父という後ろ盾を失った孤児が、ひとりでどこまでやれる。
どうせ数日もすれば、みじめに泣きついて戻ってくる。
――そう思っていた。
だが長島補佐が退室しかけたところで、浅井景辰が低く呼び止める。
「……続けて調べろ。スイスのどこにいるのかだけはな」
長島補佐は一瞬、眉を上げた。
主人が何を考えているのか、ますます分からない。
その時、扉がノックされる。入ってきたのは弁護士の坂東だった。
「浅井社長、お受け取りいただきたい書類がございます」
そう言って、机の上に封筒を置く。
浅井景辰は一瞥し、眉をひそめた。
「何だ」
坂東は淡々と告げた。
「辻本様のご依頼どおり、離婚手続きは至急で完了しております。こちらが離婚受理証明です」
そしてさらに続ける。
「加えて、株式譲渡書類と、5千万ドルの入ったカードをお預かりしております。辻本様は遺産の一切を放棄し、手ぶらで出ていかれました」
その瞬間、浅井景辰はぴたりと動きを止めた。
封筒を見据えたまま、黒い瞳がすっと細くなる。
「……今、何と言った」
坂東は金縁眼鏡を指先で押し上げた。
「法的には、すでに浅井社長と辻本様の婚姻関係は終了しております」
浅井景辰は眉間に深い皺を刻み、封筒を開けた。
中には確かに、離婚受理証明書、株式譲渡書類、そして祖父が辻本雨妃に残したカードが入っている。
「残高も確認済みです」
坂東は静かに言った。
「5千万ドル、1ドルたりとも動いておりません」
その一言で、浅井景辰の顔色は完全に沈んだ。
離婚は成立済み。
5千万ドルにも、一切手をつけていない。
駆け引きだと思っていた。
なのに、あの女は本当に消えた。
――辻本雨妃は、いったい何を考えている。
「っ……!」
次の瞬間、浅井景辰の拳が机に叩きつけられた。
鈍い衝撃音が室内に響き、長島補佐は思わず肩を震わせる。
これほど露わな怒りを、彼に仕えて以来一度も見たことがなかった。
この五年、辻本雨妃は必死に浅井家へしがみつき、あの祖父に取り入ってまで彼のそばへ居座っていた。
浅井家の栄華が目当てだったはずだ。そうでなければ説明がつかない。
それなのに今になって、すべてを捨てるというのか。
胸の奥に、得体の知れない焦燥がざわつく。
思いどおりにならない感覚が、苛立ちをさらに煽った。
「浅井社長……」
長島補佐が慎重に口を開く。
「調査は、このまま続けますか」
浅井景辰の目は、氷片でも散らしたように冷え切っていた。
「必要ない。関係のない人間を調べてどうする」
もともと、この結婚には一度たりとも満足していなかった。
辻本雨妃が自分から消えたのなら、むしろ望みどおりのはずだ。
それでも――あの女の行動だけは、予想を裏切った。
祖父が死ねば、もっと必死に浅井家へしがみつくと思っていた。
まさか一切を捨て、無一文で離婚を選ぶとは。
ふん。
これが意地なのか、それとも同情を誘うための芝居なのか。
どちらにせよ、見届けてやる。
その意地が、いったいどれほどの値打ちなのか。
身寄りもない女が、株も現金も持たず、たったひとりでスイスへ渡った。
そんなもの、どこまで持つ。
やがて泣きながら復縁を乞う日が来る。
浅井景辰は、それを待っている自分に気づいていなかった。
六年後――帝都。
第3回『アラサカ賞』授賞式が、帝都ホテルで盛大に開かれていた。
国内電子分野でもっとも権威ある賞だ。会場には専門チームの研究者たち、学界の重鎮、そして財界の大物たちが一堂に会している。
浅井景辰は仕立てのいい黒のスーツをまとい、壇下に立っていた。
六年前よりいっそう鋭さを増した眉目。冷えた眼差し。周囲には、媚びるような笑みを浮かべた各社の社長たちが群がっている。
この六年で、浅井グループは彼の手によってさらに規模を拡大した。
ここ二年は半導体分野への進出でも成果を上げ、浅井景辰という名は、財界で無視できない重みを持つまでになっていた。
その隣には、シャンパンゴールドの高級ドレスに身を包んだ日野遥が立っている。
艶やかな化粧、やわらかな笑み。
彼女はこの数年ずっと、浅井景辰の同伴者として公の場へ姿を見せてきた。だがそれ以上の立場には、一歩も進めていない。
日野遥は横目で彼を見上げ、やさしく声をかけた。
「景辰、今日、スイスから戻ったチームが最優秀イノベーション賞を取るって聞いたわ」
浅井景辰は淡々と相槌を打つだけだった。
表情はほとんど動かない。
日野遥も、彼がこの六年でいっそう寡黙で冷たい男になったことは分かっている。
それでも、自分だけは変わらず彼のそばにいる。そう思っていた。
やがて授賞式は、最後の部門へと進んだ。
司会者が壇上へ進み出て、マイクを通した張りのある声が会場に響く。
「続きまして、本年度アラサカ賞でもっとも栄誉ある最優秀イノベーション賞の発表です。受賞したのは、スイスの『レインボー』チーム。新型半導体材料の分野において画期的な進展を成し遂げ、その研究成果はチップの消費電力を40%削減する可能性を――」
会場に大きな拍手が広がった。
突破的な成果。
だが浅井景辰は、どこか上の空でそれを聞き流していた。
「それでは、受賞チームの代表者にご登壇いただきます――」
スポットライトの中、一人の女がゆっくりと壇上へ歩み出る。
深いワインレッドのロングドレス。
細い腰と、すらりとした肩から首筋の線を鮮やかに浮かび上がらせるシルエット。
女は耳元の髪をさらりとかき上げた。
くっきりとした鎖骨がのぞき、白い肌が光を弾く。
照明の中に立つその姿は、やわらかな光の輪をまとっているようだった。
――たった一目で。
浅井景辰はその場に凍りついた。
壇上のその姿から、目を離せない。
心臓が、どくんと重く脈打つ。
無意識のまま、彼は立ち上がっていた。
そして、吸い寄せられるように一歩、彼女へ向かって足を踏み出す。
