第1章 誰も彼女の生死を気にかけない
婚約者の藤原智彦が、珍しく杉浦杏奈の誕生日を祝うと言い出した。そんな扱いは、これまで一度だってなかった。
目隠しをされて車に乗せられ、胸の中は甘い期待でいっぱいだった。きっとロマンチックなキャンドルディナーだと、疑いもしなかった。
車が止まる。
藤原智彦に手を引かれ、杏奈はある部屋へ連れて行かれた。
空気はひんやりと冷たく、鼻をつくのは消毒液の匂い。
握っていた手が、ふっと離れる。
杏奈はその場に立ち尽くした。周囲はしんと静まり返り、物音ひとつしない。
「……智彦?」
呼びかけても、返事はない。
次の瞬間、誰かが近づいてきて、目隠しの布を乱暴に引き剥がした。白々しい灯りが目に刺さり、まともに開けていられない。
視界が慣れる間もなく、いきなり身体を抱え上げられ、そのまま手術台へ乱暴に押しつけられた。
男が四人。杏奈の身体を押さえつけ、服を次々と引き裂いていく。
悲鳴を上げようとした途端、口を塞がれた。
大きくせり出した腹が目に入る。暴れれば、子どもに障るかもしれない。
そう思った瞬間、抵抗できなくなった。
だが男たちは、そんなことなど意にも介さない。杏奈を手術台に縛りつけた。
一人の男が髪を掴み、容赦なく後ろへ引く。もう片方の手が下着の中へ潜り込み、胸を乱暴に揉みしだいた。
ほかの連中も好き勝手に身体をまさぐり、気づけば杏奈はショーツ一枚だけにされていた。
必死に顔を横へ向ける。
部屋の隅に、藤原智彦が座っていた。
表情ひとつ変えず、こちらを見ている。
その隣にはビデオカメラ。赤い録画ランプが、はっきりと灯っていた。
「智――」
杏奈が口を開いた、その瞬間だった。男のそれが無理やり口の中へねじ込まれる。
喉の奥を塞がれ、声にならない。
男は片手で顎を掴み、無理やり口をこじ開ける。もう一方の手では胸を力任せに握り潰すように揉み、痛みが突き抜けた。
えずきかけたが、さらに奥まで押し込まれ、息が詰まる。
杏奈は涙で滲む視界の向こう、それでも藤原智彦だけを見つめ続けた。
彼は動かない。表情もない。
拳を握り締める。爪が掌に食い込み、じくじくと痛んだ。
誰かが彼女をおかずにして扱き、誰かが身体を舐め回し、誰かがショーツへ手を伸ばす。
「死にてえのか」
藤原智彦の声は低かった。だがその一言で、四人の動きがぴたりと止まる。
ショーツを引っ張っていた男が、へらへらと笑った。
「ちょっと触るだけっすよ。ほんのちょっと」
「そこは触るな」
藤原智彦は淡々と言い放つ。
「子どもに何かあったら困る」
「へ、へい」
男は慌てて手を引っ込め、別の場所へ伸ばした。
今度は杏奈の手を掴み、無理やり自分のものを握らせて上下させようとする。
杏奈が拒むと、指を一本ずつ力任せにこじ開けられた。
鈍い音がして、二本の指がそのまま折れた。
もう一人の男のそれは、なおも口の中を出入りし続ける。杏奈は掠れた呻きしか漏らせない。
――二時間。
顔も、髪も、首筋も、ねばつくものでべっとりと汚された。
男たちが好き放題に彼女を辱めているあいだも、藤原智彦はずっと傍観していた。感情の欠片すら見せずに。
全員が去り、地下室に残ったのは彼と杏奈だけだった。
手術台に縛られたまま、杏奈はがたがたと震え続ける。
唇を動かし、ようやく掠れた声を絞り出した。
「……どうして」
藤原智彦が歩み寄り、見下ろす。
「それはこっちの台詞だ。お前はどうして人を使って美雪を痛めつけた。写真まで撮らせた」
「違う……私は……」
起き上がろうとしても、身体はまるで動かない。
「服を剥がして、シャツの袖まで引きちぎったくせに、違うだと?」
声は静かだった。だがその目は、氷のように冷えている。
「美雪は怯えて三日も外に出られなかった。お前じゃないって言えるのか?」
「私じゃない……あの子は死んだんじゃ――」
「美雪が、お前だと言った」
藤原智彦は言葉を叩きつけるように遮った。
「お前の声を聞いたってな。まだ言い逃れする気か」
杏奈は口を開いたまま、もう何も言えなかった。
藤原智彦が身を屈める。その目に浮かんでいるのは、露骨な嫌悪だけだ。
「美雪を苦しめた分、倍の痛みを味わえ」
「美雪の写真をばら撒いたら、お前の映像を全プラットフォームに流してやる。一生消えない」
杏奈は目を見開き、恐怖に喉を締めつけられた。
そのとき、地下室の扉が開く音がした。
助けが来たのかと、反射的に顔を向ける。
入ってきたのは医療スタッフの一団だった。看護師が器具を載せたカートを押している。
そして先頭に立っていたのは、杉浦家の主治医――高橋昇太。
高橋昇太は杏奈の惨状を見るなり、思わず半歩退いた。だがすぐに視線を戻し、事務的に告げる。
「藤原社長、器具の準備は整いました」
「始めろ」
藤原智彦が頷く。
「美雪は刺激を受けた。早く俺たちの子どもを見たがってる」
彼は杏奈の腹へ手を伸ばしかけ、汚いものでも見るように引っ込めた。
「もう臨月だ。帝王切開で取り出せ」
――俺たちの子ども。
その言葉で、杏奈の頭は真っ白になった。
藤原智彦は彼女を見もしないまま、高橋昇太へ視線を向ける。
「高橋先生、やれ」
高橋昇太が頷く。
「麻酔医を――」
「麻酔? いらない」
藤原智彦が冷たく嗤った。
「麻酔薬は俺と美雪の子に影響する。体外受精はやっと成功したんだ。絶対に失敗は許さない。今すぐ始めろ」
杏奈は目を見開き、信じられないものを見るように彼を見た。
「体外受精……? あなたと美雪の子……? 藤原智彦、何を言って――ああっ!」
下腹を長く裂かれ、血が噴き出した。
痛みがすべてを塗り潰し、声は喉の奥で潰れる。
それでも杏奈は、最後の意識で藤原智彦を睨み続けた。
杏奈の絶叫を聞きながら、藤原智彦はひどく愉しげな顔をしていた。
「ふざけたことを言うな? お前が美雪を水に突き落として身体を冷やさせなければ、妊娠しにくくなることもなかった。俺がここまでして騙す必要があったと思うか?」
杏奈の頭の中は真っ白になり、全身が痙攣する。
「違う……私じゃない……突き落としてない……!」
「どっちでも同じだ」
藤原智彦は冷たく言い捨てた。
「十ヶ月、お前を甘やかして気分よく過ごさせてやった。藤原家には『子どもが生まれてから結婚する』しきたりがあると嘘をついたら、お前はまんまと信じた。馬鹿な女だ」
苦痛に歪む杏奈を眺めるその目には、どす黒い憎悪が滲んでいた。
「美雪はこの子のために、仕方なく死んだことにして、海外で十ヶ月も一人きりで耐えた。どれだけつらかったと思う」
「それをお前は人を使って脅した。痛めつけた。よくも……」
「代償を払え。高橋先生、急げ」
藤原智彦が黙ると同時に、高橋昇太の手が容赦なく動く。
杏奈の絶叫が地下室に響き渡り、身体が大きく跳ねた。
鎖が手首と足首に食い込み、血肉は裂け、白い骨が覗いている。
「藤原智彦……絶対に許さない……!」
杏奈は血走った目で彼を睨みつけた。
「杉浦家のみんなも……あなたたちを……!」
「杉浦家?」
藤原智彦は侮蔑を滲ませ、鼻で笑った。
「お前の生き死になんか、誰が気にする」
言い終わるより先に、地下室の外から弾んだ声が響いてきた。
「美雪が生きてた! よかった、本当によかった!」
杉浦秀明の声だった。
「今すぐ杉浦家を封鎖しろ! 絶対に杉浦杏奈を帰すな。美雪はあいつの顔なんか見たくないはずだ」
続いて、杉浦啓介の嫌悪に満ちた声。
「帰さないで正解だ。結婚前に腹をでかくしやがって、杉浦家の面子を丸潰れにしたんだからな」
「病人ぶるのが好きならちょうどいい。兄貴が献体同意書にサインしてる。あいつが死んだら、心臓も肝臓も脾臓も肺も、全部提供させろ。少しは世の役に立てるだろ」
「ほら、ぐずぐずするなよ。美雪に予約してたスポーツカー、もう届く頃だ。ちゃんと埋め合わせしてやらないとな」
「当たり前だ。俺は兄貴のところへ行く。杉浦杏奈の持ってる株も美雪に渡させろ。あいつに杉浦家の株を持つ資格なんかない!」
声は次第に遠ざかっていく。
杏奈の身体は氷のように冷えきり、痛みで息もできなかった。
夢にも思わなかった。
血の繋がった家族が、自分の命を見捨てるなんて。
