第3章 地獄に生きる
杉浦杏奈は、またあの夢を見た。
夢の中で、弾丸がこめかみから撃ち込まれ、脳を貫き、反対側で弾け飛ぶ。
あの感覚を、杉浦杏奈は覚えている。痛みじゃない。熱だった。
真っ赤に焼けた鉄球を頭に叩き込まれたみたいな灼熱。世界が真っ白になり、それから真っ黒になって、最後には何もなくなった。
自分は死んだのだと思った。
けれど、目が覚めた。
また自分の部屋だった。身体は無傷。傷口も、痕も、腹を裂かれて縫われた跡さえない。
杏奈は勢いよく身を起こし、ベッド脇のスマホをひったくるように掴んだ。
表示された日付は、まだ二年前。
本当に――自分は生き返ったのだ。
この時点では、杉浦美雪はまだ偽装死をしていない。藤原智彦はまだ、愛する婚約者のふりを続けている。杉浦家の全員もまた、信託基金目当ての笑顔を彼女に向けていた。
杏奈は画面の日付を見つめたまま、指先を震わせる。
5月20日。
杉浦美雪が「死んだことになる」その日が、今日だった。
前世、美雪は川へ飛び込み、そのまま姿を消した。
誰もが、杉浦杏奈のせいだと思い込んだ。数日前に姉妹喧嘩をしていて、そのとき美雪が涙ながらにこう言ったからだ。「お姉ちゃんは、私を受け入れてくれない」
杉浦家の人間は信じた。藤原智彦も信じた。誰も彼も、みんな信じた。
あの日を境に、杉浦杏奈の世界は崩れ落ちた。
母は彼女に視線すら向けなくなり、父は冷酷非情だと言い切った。三人の兄は代わる代わる彼女を罵り、藤原智彦は氷のような目で見下ろした末に、「代理母」の計画を立て始めた。
では、杉浦美雪はどうしていたのか。
海外に身を隠し、のうのうと生きながら、みんなが自分の代わりに復讐を果たしてくれるのを笑って待っていた。
杏奈はスマホを置き、深く息を吸った。
この数日、彼女は必死で「生き返った」という現実に慣れようとしてきた。泣いた。吐いた。前世で死ぬ直前の惨状を、毎晩のように悪夢で見た。
でも、もう泣かない。
自分の生き返りが本物なら、杉浦美雪の偽装死だって、本当の死に変わればいい。
杉浦杏奈は口元を持ち上げ、心の底から笑った。
そのとき、ドアを叩く音がした。
「杏奈、いつまで寝てるんだ。今日はリバーサイドヴィラのオープニングだぞ。早く着替えろ」
杉浦秀明の声だった。
ひとつ咳払いしてから、どこか気まずそうに続ける。
「新しいドレス、こっちで用意しておいた。美雪はお前の物に勝手に触っちゃ駄目だって知らなかったんだ。あいつのこと、もうあんまり責めるなよ」
数日前、杉浦美雪が彼女のドレスを勝手に着たせいで、杏奈は激怒した。家族は全員そろって彼女を責め、秀明に至っては、そのドレスを自ら引き裂いた。
その一件以来、杏奈は何日も秀明と口を利いていない。
今の杉浦秀明は、まだ「いい兄」を演じている時期だ。わざわざドレスを手配したのも、その一環に過ぎない。
杏奈は小さく笑って答えた。
「分かった」
あまりにもあっさり機嫌を直したものだから、秀明は不思議そうにしながらも、どこかほっとしたようだった。
「じゃ、急げよ」
急げ、か。
もちろん急ぐに決まっている。
杉浦美雪が水の中でもがき、息もできずに沈んでいくところを、この目で見られるのだ。
そう思っただけで、胸の奥がぞくりと熱を帯びた。
リバーサイドヴィラは、この日ひときわ華やいでいた。
杉浦家が手がける新たなリゾート開発事業のオープニング。テープカットには、財界の名だたる顔ぶれが大勢招かれている。
杉浦正弘はリビングの最前列に立ち、鋏を手に、上品で隙のない笑みを浮かべていた。
その傍らには杉浦三芳。ロイヤルブルーのドレスに身を包み、夫の腕にそっと手を添えた姿は、まさしく理想的な名家の夫人だった。
両親の後ろには、杉浦陽向、杉浦秀明、杉浦啓介の三兄弟。隙なく着こなしたスーツ姿に、報道陣のシャッター音が何度も重なる。
そして杉浦家の二人の令嬢である杉浦杏奈と杉浦美雪は、それぞれ両親の傍らに立っていた。
杏奈が身に着けているのは、シャンパンカラーの膝丈ドレス。秀明が「弁償」として用意したものだ。
一方の美雪は、白いワンピースに肩へ流した柔らかな髪。見るからにか弱く、素直で、守ってあげたくなるような雰囲気をまとっている。
カメラに向ける笑顔は、ひどく甘く愛らしい。ときおり杏奈のほうを振り向いては、遠慮がちに機嫌をうかがうような視線を送っていた。
近くで、ひそひそと囁き声が上がる。
「杉浦家の次女、すごく綺麗ね。性格もいいって聞くし、ほんとによくできた子なんですって」
「お姉さんのほうも美人だけど……ちょっと近寄りがたい感じよね」
それを耳にした秀明が、声を潜めて言った。
「杏奈、聞こえただろ。いつもそんなふうに仏頂面してるなよ」
杏奈は返事をしなかった。
秀明は眉をひそめたが、それ以上は何も言わない。
テープカットが終わると、人々は散り散りになり、リゾートヴィラの景観や設備を見て回り始めた。
杉浦正弘は数人のスポンサーと酒を酌み交わし、三芳は数名の夫人たちを伴って庭園へ向かう。陽向は取引先に囲まれて新規案件の話を持ちかけられ、啓介はいつの間にか姿を消していた。
秀明はシャンパンを片手に、赤いドレスの美女と楽しげに談笑している。整った顔には、愛想のいい笑みが張りついていた。
杏奈は一人、二階のテラスに立ち、眼下の景色を眺めていた。
「お姉ちゃん」
背後から声がした。
振り返ると、杉浦美雪がフルーツジュースを二杯持って立っていた。
「喉、渇いたよね? お姉ちゃんの分、持ってきたの」
杏奈はその笑顔を見つめた。
清潔そうで、無垢で、何も知らないふりをした顔。
前世でも、美雪はこんなふうに笑っていた。そして、そのまま自分を地獄へ突き落としたのだ。
「ありがとう」
杏奈はジュースを受け取ったが、口はつけなかった。
美雪は彼女の隣に並ぶ。
「お姉ちゃん、まだ怒ってる? あのドレス、お姉ちゃんのだなんて本当に知らなかったの。陽向兄さんが、着てもいいって言ったから……。それに、秀明兄さんには、もうお姉ちゃんを叱らないでってちゃんと言ったの。だから、もう怒らないで」
杏奈はふっと笑った。
「怒ってないわ」
「ほんとに?」
美雪は目を丸くする。
「じゃあ、許してくれたの?」
杏奈は彼女を見つめたまま、ふいに手を伸ばした。風に乱れた髪を、耳の後ろへそっとかけてやる。
傍から見れば、優しい姉そのものだった。
「もちろんよ。私たち、家族でしょう? 美雪」
美雪は完全に言葉を失った。
目の前にいるのは、本当に杉浦杏奈なのか。
今の杏奈なら、感情を爆発させて「もうその芝居やめて」「最低な女」と怒鳴りつけてくるはずだった。
通りがかった何人かの客が、その様子を見て微笑ましそうに話している。姉妹仲がいいのね、と。
前世では、みんなが口を揃えて言った。杉浦杏奈は高慢で我が強く、あんな目に遭っても自業自得だ、と。
今世で、そんなふうに罵る隙なんて与えるものか。
芝居なら、自分にだってできる。
そこへ秀明がやって来て、怪訝そうに二人を見比べた。
「仲直りしたのか?」
杏奈は彼を見て、こくりと頷く。
秀明は少し肩の力を抜いたようだった。
「この前は、俺も言い方が悪かった。杏奈、あんまり気にするなよ。お前も美雪も、どっちも俺の妹なんだから、俺はちゃんと二人とも大事にしてる」
その言葉を口にするときの表情は、驚くほど誠実だった。
けれど杏奈の脳裏には、前世の彼が「いっそ死ねばよかったんだ」と言い放ったときの顔が、ありありと浮かんでいた。
あのときも、同じくらい本気だった。
「うん、分かってる」
杏奈は微笑んだ。
秀明は彼女の肩をぽんと叩き、そのまま立ち去る。
美雪は存在しない涙を指先で拭う仕草をした。
「お姉ちゃん、じゃあ私、あっちでお母さんに挨拶してくるね」
「ええ」
美雪はくるりと背を向けて去っていく。
その姿を見送ると同時に、杏奈の顔から笑みは消えた。
美雪が母親のところへ向かうのではないことくらい、分かっている。
川辺で芝居を打つ準備に行くのだ。
杏奈は手にしたままのフルーツジュースを植木鉢へ静かに流し捨てた。表情はひどく冷えきっていた。
午後3時。
案の定、美雪が戻ってきた。杏奈に、どうしても話したいことがあるのだという。
二人は前後して、川辺まで歩いていく。
「お姉ちゃん」
美雪が振り返ったときには、すでに涙が頬を伝っていた。
「お姉ちゃんが私のこと嫌いなのは分かってる。でも、お姉ちゃんがどう思おうと、私は杉浦家の血を引く娘なの」
そう言って、一歩前へ出る。水際が近くなる。
「だけど……私がいることでお姉ちゃんがこんなにつらいなら、私、ほんとに死んだほうがいいのかもしれない。永遠にいなくなれば……」
杏奈は何も言わず、ただ見ていた。
美雪はさらに一歩、水辺へ寄る。
「私が死んだら、お姉ちゃん、私を許してくれる? もうお父さんやお母さんに怒ったりしない?」
前世、このときの杏奈は言ったのだ。
そんなことしないで、落ち着いて話そう、と。
けれど今世の杏奈が口にしたのは、まったく別の言葉だった。
「じゃあ、死ねば?」
美雪はぴたりと固まった。
「……え?」
「死ねって言ったのよ」
杏奈は鼻で笑う。
「ほら、飛び込みなさいよ」
美雪は目を見開いた。
「お姉ちゃん、何を――」
「手伝ってほしい?」
杏奈は一歩踏み込み、そのまま思いきり両手で杉浦美雪を突き飛ばした。
